『太平記』(136)

12月9日(金)晴れ

 建武3年(1336)正月、都に迫った武家方の軍を防ぐために、義貞は勢多に名和長年、宇治に楠正成、山崎に弟の脇屋義助を配置し、自らは桂川、宇治川、木津川の合流点近くの淀の大渡に陣を構えた。しかし、公家侍や文観僧正の手下のならず者たちの寄せ集めである山崎の兵たちが中国・四国からはせ上ってきた細川定禅の率いる大軍に怖気をふるい、投降したり、逃亡したりするものが相次ぎ、このため大渡の義貞も都に退却せざるを得なくなった。京中は大騒ぎとなり、後醍醐天皇は比叡山に落ち延びられたが、大慌てで宮中の宝物の多くが取り残されているような様子であった。

 信濃の国(実は武蔵の国)の住人である勅使河原という武士は大渡に向かおうとしていたのだが、宇治も山崎も敗れて天皇は都を離れて比叡山に向かわれたと聞き、危険な時に命を投げ出すのが忠義の士である。何の面目があってか、滅びた王朝の家来として、不義の逆臣に従うことができるだろうかと三条河原から父子3騎引き返して羅城門のあたりで腹を切って死んだ。
 この行動は理解しにくいし、それが『太平記』にわざわざ書き留められていることも理解に苦しむ。三条河原にいたということは、比叡山の方角をいったんは目指していたということであろうし、新田義貞の軍に合流すれば、これからまだまだ戦う機会はあるはずである。よほど前途を悲観したということであろうか。

 名和長年は勢多の防御にあたっていたが、山崎の陣が破れて後醍醐天皇が早くも東坂本に落ち延びられたという情報が伝わってきたので、「ここからすぐに坂本に駆け付けるのはたやすいことではあるが、もう一度内裏にはせ参じないまま落ち行くのは後になって非難を受けるかもしれない」と、配下の300余騎を引き連れて、10日の暮れほどに、また京都へと帰った。〔瀬田から東坂本へは琵琶湖の岸伝いに行けばよいのだが、慎重を期して情報を確認し、事態を見極めたうえで行動しようというのであろう。〕

 1月10日は縁起の悪い日であるということで、尊氏はまだ都に入っていなかったが、四国、西国の兵たちが数万騎都に入っていて、京都と鴨川の東の白河の一隊に充満していた。その兵たちが名和長年の帆掛け船の傘印を見て、手柄を立てようと押し寄せてくるのを長年は馬で武士たちの中に入って通り抜け、彼らを蹴散らして出て、17度まで戦った。300騎の兵は次第次第に打たれて、100騎ばかりになってしまった。

 それでも長年はついに戦死することはなかったので、内裏の置石(すえいし=大極殿の前庭にある龍尾壇)のあたりで馬を下りて、兜を脱いで天子の御座に向かってひざまずいた。とはいえ、天皇が東坂本に臨幸されてから数刻(1刻は約30分)しかたっていないのに、内裏はガラガラになっている。四つの門はすべて閉じられ、宮殿は寂寞としている。早くも名もない庶民たちが乱入したと思われ、紫宸殿の障子が破られたり、乱れたままになったりしている。後宮の弘徽殿も荒らされている。

 長年はつくづくとこれを見て、さしも荒々しい武士の心の持ち主であった彼の心にも哀れの色が浮かんだのであろうか、両眼から涙がこぼれて、鎧の袖を濡らしたのであった。しばらくあたりをうろついていたが、「いざさらば、東坂本へ参らん」と葉面の前より、馬に乗って走り出したが、その前に「敵の馬の蹄にかけさせるよりは(この方がましだろう)」と、内裏に放火し、今路越(いまみちごえ:修学院付近=西坂本から比叡山を越え、大津市坂本=東坂本へ至る道)を急いでいった。

 長年に放火された御所は、風の強い季節であったので、辻風に吹かれて、瞬くうちに灰燼に帰してしまった。むかし、中国で越の王が呉を滅ぼしてその宮殿を焼きつくしたり、項羽が秦の咸陽宮を炎で包んだ出来事と変わらないと、人々は嘆いたのであった。〔なお『梅松論』には「秦の軍敗れて咸陽宮。阿房宮を焼はらひけるは。異朝の事なればおもひはかりなり。寿永3年平家の都落ちもかくやとおぼえてあはれなり」(群書類従第20輯、173ページ)と書かれていて、こちらの方がより現実に即した表現となっている。〕

 翌、正月11日、足利尊氏が80万騎をひきいて都に入った。『太平記』の作者は「ゆゆしかりし有様なり」(第2分冊、419ページ、いかめしく立派な様子である)と記す。前々から、合戦に無事に勝利して京に上ったら持明院統の院、宮様方の中から1人を天皇として即位させ(将軍の地位を正統なものとすることによって)、天下の政道を武家が取り仕切るようにしようと構想を固めていたのであるが、持明院の院、法皇、儲けの君(皇太子)、一人残らず、比叡山に向かわれていたので、尊氏は今後の政治体制をどのようにすればよいのかと悩んだのであった。〔『梅松論』では尊氏は洞院公賢の屋敷に入ったと記されている。〕

 さて、建武政権下で抜擢され、楠・名和・千種とともに「三木一草」と呼ばれたほどの寵臣の1人であった結城親光は天皇に同行しようと考えていたが、形勢を見るにどうも期待通りにはいきそうもない、どうかして尊氏を討とうと思い直して、わざと都に留まっていた。そしてある禅僧をつてとして、尊氏に降参する所存であると伝えたところ、「親光の考えているのは、本当に降参するということではあるまい。尊氏をたばかるためであろうと思われる。とは言うものの彼の言い分を聞け」と大友貞載を彼のもとに遣わした。大友は竹ノ下の戦いで、宮方から足利方に寝返って、官軍の敗因を作った武将である。

 大友はもともとあまり思慮の足りない武将であったので、結城に向かって、「降参されたというのであれば、習いとして、鎧・兜などの武具を脱いでいただきたい」と荒々しく声をかける。親光はこれを聞いて、さては尊氏はもう自分の心中を推察して、討ち果たせという使いをよこしたのかと悟り、「物具を脱がせよというお使いであれば、こちらに近よって脱がせよ」というなり、三尺八寸という大太刀を抜いて大友に駆け寄り、斬りつける。大友も太刀を抜こうとしたのだが、結城の太刀で受けた傷のために刀を抜きかけたまま馬から逆さまに落ちて死んでしまった。これを見て大友の家臣たち300余騎が、親光の率いていた17騎を、取り囲んで討ち果たしてしまった。

 敵も味方もこれを聞いて、「あたら兵を、時の間に失ひつる事のうたてしや」(421ページ、惜しいつわものを、一瞬で失ってしまったのは残念なことよ」と惜しまない者はいなかった。結城のたくらみを見抜いた尊氏の運が強かったということだと思われた。〔結城の行動については、『梅松論』の方が詳しく記しているが、そこでは尊氏ではなく、竹ノ下で裏切った大友を倒そうとしたと彼の意図をしるし、その忠勇をたたえている一方で、大友についても将軍への忠義を称賛しているのが違う。〕

 ここで14巻は終わる。「三木一草(楠、伯耆=名和長年、結城、千種)」の1人が姿を消し、形勢は宮方に不利になりかかっているが、東北から大軍を率いてやってくる北畠顕家の兵が合流すれば形勢逆転の可能性がある(ということは、『太平記』は書いていない)。武家方は、誰か適当な皇族を皇位につけることで、自分たちの政権の正統性を確保するつもりだったのが当てが外れたというのは『太平記』には書かれているが、『梅松論』には出てこない。
 勅使河原と結城の死がわざわざ書き留められているのは、この時期の武士たちの多くが、戦いの形勢によってすぐに降参したり、逃亡したりするのが常であったということのためでもあろう。彼らは例外的な存在であったから書き留められたのである。
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