『太平記』(135)

12月2日(金)晴れ

 建武3年(1335)、諸国の朝敵蜂起の知らせが朝廷にもたらされ、後醍醐天皇は足利尊氏・直義討伐に失敗して尾張で形勢の挽回を図っていた新田義貞を京へ呼び戻した。義貞は足利軍の侵攻に備えて、勢田に名和長年、宇治に楠正成、山崎に弟の脇屋義助を配置して防備を固め、自らは桂川・宇治川・木津川の合流点近くの淀の大渡に陣を布いた。
 開けて建武4年(1336)正月、足利尊氏は80万騎の兵を率いて、石清水八幡宮のある男山の麓に陣をとり、宮方と武家方の主力が川を挟んで対峙することになった。〔尊氏・直義兄弟の軍の後から、宮方の北畠顕家が大軍を率いて都を目指していたことに『太平記』は触れていない。また、都を守る各武将の配置について『太平記』と『梅松論』の記述は異なっている。〕

 さて、山崎を守る脇屋義助の陣をめがけて押し寄せたのは、四国・中国地方の武士たちを集め、さらに赤松勢と合流した細川定禅の軍勢3万余騎で、桜井の宿(大阪府三島郡島本町桜井)の東の方にたどり着いた。元弘の六波羅攻略の際の先例もあるので、赤松範資が先陣と決まっていたのに、播磨の武士である紀氏、浦上氏の300騎ほどが抜け駆けをして押し寄せた。〔『太平記』にはこのように軍議で先陣が決まっているのに、抜け駆けを試みる例がよく出てくる。大体、失敗に終わる。〕 山崎の陣を守っていた官軍は、相手が小勢であるとみて、500余騎が一斉に刀を抜いて駆け出してきたのを見て、寄せての軍勢はひとたまりもなく、追い立てられて逃げ散ってしまう。

 次に坂東、坂西(阿波国坂東・坂西郡⇒徳島県板野郡)の武士たち2,000余騎が押し寄せる。脇屋義助と宇都宮泰藤の率いる2,000余騎の兵が打って出て、半時(1時間)ほど戦ったが、勝敗がなかなか決しない。

 戦いの半ばに、四国の大将である細川定禅が30,000余騎で押し寄せた。官軍は敵が大勢であるのを見て、敵わないと思ったのであろうか、城の中に引きこもる。〔官軍は7,000余騎で数的に劣勢であるから、初めから防備を固めていた方がよかったのである。〕 武家方の寄せては調子に乗って、防備のために官軍が設けた障害を戦死者を出しながらもその死体を乗り越え乗り越え攻め続け、堀は死人で埋まって平地になるほどであった。

 そうこうしているうちに宮方に属していた但馬国の住人である長九郎左衛門が武家方に降伏する。洞院公泰や文観僧正の配下にいた「畑水練しつる者ども」(=水のないところで水練するように実地に通用しない訓練をしていた者たち)は、この様子を見て、武装を解いてわれ先に降参し始めた。残された官軍の3,000余騎は桂川西岸の赤井河原を指して逃げのびていった。〔この巻の前の方で、山崎の軍勢の主力が公家侍や文観の手下の寄せ集めなので「この戦もはかばかしからじ」といわれていたことが思い出される。〕

 山崎が破れたという知らせを聞いて新田義貞は、敵が皇居に乱入する事態を察知した。そして後醍醐天皇をまず比叡山にお移しすることが安心して合戦できる条件であると、都に帰っていった。それまで義貞の陣営にいた大友千代松丸と宇都宮公綱が武家方に投降した。〔義貞の軍はほとんど戦死者を出していないはずであるが、足利方に寝返るものが出てきた。〕
 大渡を守っていた義貞と山崎を守っていた義助とが兵を合わせて、桂川と宇治川の合流点にあった淀大明神の前を撤退していくと、細川定禅の率いる20,000余騎が追ってきた。義貞の長男である義顕は後陣として最後尾にいたが、防戦のために引き返し、淀大明神の前の相撲が辻に陣を構えて、追跡してきた軍勢に応戦したが、前を行く父義貞には後方で戦闘が行われているとは告げなかった。これは天皇の山門への行幸を助けるためであった。
 義顕はお互いに矢を射かける矢戦でしばらく時間を稼ぎ、父親が内裏に参上していると思われる時間になって配下の3,000余騎を2tに分け、東西から叫び声をあげて、細川の軍に攻めかかった。激しい戦いとなったが、これまで味方であった宇都宮と大友の兵たちは、義顕の顔を知っているので、他の軍勢には目もくれず、義顕を囲んで打ち取ろうとするが、義顕はその囲みを打ち破っては出て、また取って返しては追い退け、7・8度までそれを繰り返したので、鎧の袖も兜の錣もみな切り落とされて、重傷を負いながらも、かろうじて都に帰り着いたのであった。

 山崎、大渡の陣が破れたという知らせが届いたので、京都中の高貴な身分の人もそうでない人も急にそうなったかのように、慌てふためき、倒れたり迷ったり、車や馬を東西に動かし、財宝を京都の北と南にもち運んだのであった。
 義貞、義助がまだ参上する前に、後醍醐天皇は比叡山に落ち延びられるおつもりで、三種の神器を身近に携えて、輿に乗られたのであるが、輿を舁く役人が一人もいなかったので、内裏の東西南北の門を警護していた武士たちが鎧を着ながら、天皇の警護に当たったのであった。

 天皇の側近中の側近である吉田内大臣定房公は、車を急がせてやってきたのであるが、御所中を走り回って様子を見ると、人々はみな慌てていた気配で、明星日の札、清涼殿の夜御殿の東の二間四方の間の御本尊である観音像まで置き去りにされていた。定房は落ち着いて、青侍どもに取り持たせて天皇の後を追ったのであるが、それでもまだ見落としがあって、皇室に伝えられた琵琶の名器である玄象(げんじょう)、牧馬、達磨の袈裟、五大尊などが取り落とされていたのはあさましいことであった。〔玄象、牧馬という琵琶は確かに伝来の名器であるが、達磨の袈裟などは、何かいかがわしい感じがする。宮中の宝物に仏像が含まれていた点も興味深い。〕

 この2,3か年の間、天下がようやく一つにまとまり、天皇の御恩を受けて威張り帰っていた公卿や殿上人たちが、大したこともないのに武芸を好んで礼法を忘れていたのは、このような異変の前触れであったかとこの時になって気づかれることであった。新田義貞は、一族30人を連れて馬を急がせ、比叡山の東の麓である東坂本に駆け付けるありさまは、中国との唐の時代に玄宗皇帝が潼関(陝西省東端の関)で安禄山の反乱軍に敗れ、蜀へ逃れた際の様子もこのようであったかと思われるのであった。〔どうもいうことが大げさである。〕

 新田義貞の一族郎党はみな、勇敢で軍略も持ち合わせているが、味方の兵力が不足している。特に脇屋義助は竹ノ下でも山崎でも公家侍や文観僧正の手下といった寄せ集めの兵力を率いることになり、さらに相手の陣営に寝返るものが出たりして、敗戦の原因を作ってしまうのは気の毒である。兵力の点では勝る足利方であるが、戦局の変化によっては宮方に寝返る武士たちも出そうで、まだまだ情勢は流動的である。(『太平記』の作者はずっと触れないままであるが、北畠顕家の率いる大軍が都の救援に向かってきている。後醍醐天皇は比叡山に逃れられ、今度は比叡山の麓で戦いが展開されることになる。

 
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