海老坂武『加藤周一 ニ十世紀を問う』

4月27日(土)晴れたり曇ったり


 海老坂武『加藤周一 ニ十世紀を問う』(岩波新書)を買ったのは4月22日で、24日に読み終えている。読むには比較的簡単であったが、論評するとなるとそう簡単ではない。

 その理由の一つは加藤の業績が簡単に整理できる性質のものではないためである。海老坂さんの言葉を借りれば、彼は「『文学とは何か』の文学批評家であり、『運命』の小説家であり、「雑種文化論」の文明批評家であり、『日本 そのこころとかたち』の美術史家であり、『日本文化における時間と空間』の思想史家であり、『夕陽(せきよう)妄語』の時評家であり、「九条の会」の政治的行為者であり、エトセトラ。いわば多面体の存在である」(2ページ)。さらに言えば、加藤はフランスを中心とするヨーロッパ文化の研究・紹介者であり、読書人であった。岩波新書に入っていた『私の読書法』は各界の有名人がそれぞれの読書体験を述べたエッセイを集めた書物であったが、その中で新書と文庫しか読まない(訳はないのだが)という加藤の文章は大きな影響力をもった。(少なくとも私に対してはいまだに影響力を及ぼしている。)また加藤は内外(外の方が多いのが凄いところであるが)の大学の教師を務め、社会人としての出発点においては医師であった。

 多面体といっても、その中には輝いている面もあるし、それほどではない面もある。それとは別に私が触れたことがある面と触れていない面がある。多面性に加えて、多くが社会的な状況や文学会の動きに関連して書かれたものであるために体系をなしているとは言い難いし、量的にも膨大であることも考えてよかろう。しかし全体としてみると、加藤は海老坂さんが言うように<観察者>として政治運動に参加しても周辺の方にいたし、政治や経済よりも文化の方に興味を持ち続けていた。海老坂さんが加藤を知るために最もよい本であると推奨している『羊の歌』は読んでいないので(今度、読んでみようと思う)あるが、私自身としては文明批評家として、時評家としての加藤の仕事ぶりには瞠目してきた。これはこれらの仕事が<観察者>としての立場をより多く要求するものであることによるものではなかったか。

 興味深く読んだ個所を挙げて行くと、加藤が初めて渡仏して「戻ってきた」という印象をもったのに対して、海老坂さんが「そのほぼ十年後にやはり留学生としてフランスの土地を踏んだ私の目から見ると実に驚くべき言葉である。私にはすべてがすべて日本と違って見えたからである」(96ページ)。ヨーロッパの研究をしていると、ヨーロッパに出かけて何となく懐かしくなる部分もあるし、日本との違いを感じる部分もある。そのどちらを強く感じるかはその人の成育歴や世代、出かけたときの年齢などさまざまな要素に影響される。私の印象は海老坂さんに近い。

 『日本 そのこころとかたち』の中に含まれる重大な示唆:「民俗宗教に対する仏教とキリスト教の対応の違いを、『共存』と『組み入れ』の違いとして捉えている個所。これは、イスラム教の場合を含めて一冊の本のテーマともなるだろう。」(193ページ)。キリスト教にも「共存」が、仏教にも「組み入れ」があると海老坂さんは続けて論じているが、確かにもっと掘り下げてよい問題が含まれている。またどちらでもなく「融合」や「乗り越え」を志向する立場もあるだろう。

 『夕陽妄語』の中の歴史教育をめぐる指摘:「一国の歴史の叙述を自慢話に還元しようとするのは、その国の文化の未熟さを示す」(226ページ)。ここは『旧約聖書』の「列王記」と「歴代誌」を持ち出して論じると議論がふくらむところである。

 加藤という知の巨人の業績を概観して、読者の彼に対する考えを整理し直すためだけでなく、たぶん入門書としても役立つはずである。 
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