呉座勇一『応仁の乱』

11月28日(月)曇り、時々晴れ

 11月27日、呉座勇一『応仁の乱』(中公新書)を読み終える。

 応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた大乱である。その名を知っている人は多いが、詳しいことを知っている人はあまりいない。それはなぜこの戦乱が起きたかがよくわからないし、最終的にだれが勝ったかもわからないからである。「劇的で華々しいところがまるでなく、ただただ不毛で不条理、これが応仁の乱の難解さ、ひいては不人気につながっているのだろう」(ⅱページ)と著者はいう。
 さらに続けて、「原因も結果も今ひとつはっきりしない応仁の乱。だが後世に与えた影響は甚大である』(同上)といい、この戦乱が旧体制を徹底的に破壊し、新時代を切り開いたと評価する内藤湖南に始まる、様々な学説が紹介される。最近は、応仁の乱の”前”と”後”の政治過程の研究が進み、嘉吉の変(1441:6代将軍足利義教が暗殺された事件)以後20年余りの間の矛盾の総決算として応仁の乱が位置づけられること、乱の終結後、幕府はただちにその求心力を失ったのではなく、幕府の支配の再建が進められたが、明応2年(1493)の政変によって幕府の権威は決定的に失墜したことなどが明らかにされてきた。
 とはいうものの日本社会全体への影響を考えた場合、その規模と長さから見ても、応仁の乱の意義は小さいものではないと著者は論じる。そして、応仁の乱の”入口”と”出口”だけでなく、”中味”を改めて検討する必要があるという。この課題に取り組むうえで絶好の資料として、著者は『経覚私要釥(きょうがくしようしょう、「しょう」の字の旁は「小」ではなくて「少」であるが、字が見つからなかった)』と『大乗院寺社雑事記』という、この戦乱の時期を生き、戦乱を実際に体験した経覚と尋尊2人の興福寺の高僧の質量ともに豊かな日記に注目し、これらを主な史料として読み込むことによって、戦乱の具体的な推移をたどろうとしている。戦乱に困惑しながらも、「貴族や僧侶たちはしぶとく生き延びたし、大多数の民衆にとって戦乱は災厄でしかなかったのである」(ⅷページ)と、結論の一端が述べられて本文への導入となっている。〔応仁の乱における戦闘の主な部分は京都で起きているために、奈良にいた僧侶には正確な情報が伝わっていない場合があることなどの、史料の問題点についても視野に入れられている。〕

 この書物の目次は次のようなものである:
第1章 畿内の火薬庫、大和
 1 興福寺と大和
 2 動乱の大和
 3 経覚の栄光と没落
第2章 応仁の乱への道
 1 戦う経覚
 2 畠山氏の分裂
 3 諸大名の合従連衡
第3章 大乱勃発
 1 クーデターの応酬
 2 短期決戦戦略の破綻
 3 戦法の変化
第4章 応仁の乱と興福寺
 1 寺務経覚の献身
 2 越前の状況
 3 経覚と尋尊
 4 乱中の遊芸
第5章 衆徒・国民の苦闘
 1 中世都市奈良
 2 大乱の転換点
 3 古市胤栄の悲劇
第6章 大乱終結
 1 厭戦気分の蔓延
 2 うやむやの終戦
 3 それからの大和
第7章 乱後の室町幕府
 1 幕府政治の再建
 2 細川政元と山城国一揆
 3 孤立する将軍
 4 室町幕府の落日
終章  応仁の乱が残したもの

 第1章「畿内の火薬庫、大和」は、この書物の主な史料である2点の日記が書かれた興福寺を取り巻く事情を、平安時代の終わりから室町時代にかけての畿内、特に大和地方の政治と社会の動き(宗教の動きとあまり関係していないところが気になる)をたどりながら概観している。
 興福寺はもともと藤原氏の氏寺であったが、養老4年(720)には官寺に列せられたことから、藤原氏と朝廷の双方の影響を受けてきた。院政期になると、藤原氏の嫡流である摂関家の子息が興福寺に入寺するようになり、摂関家の子弟が興福寺の別当(寺のトップ、「寺務」ともいう)になる流れが出来上がる。これは院政の定着によって摂関の政治的権威が低下したことから生じた危機感を反映するものであった。それまでは藤原氏の氏長者の行っていた興福寺の人事に院=治天が介入するようになり、これに反発する興福寺の嗷訴(強訴)が頻発するようになった。こうした院と摂関家・興福寺の対立の中で、興福寺の軍事力が強化され、「大衆(だいしゅ)」(僧兵)が台頭した。
 摂関家と密着した結果として、興福寺はその内部抗争、さらに平氏と摂関家の対立に巻き込まれ、治承4年(1180)には平氏による南都(奈良)焼き討ちによって東大寺とともにほぼ全焼した。しかし治承・寿永の内乱(源平合戦)の終結以後、興福寺は再建され、鎌倉幕府成立後も、大和国には守護は設置されず、興福寺が事実上の大和守護として君臨した。

 ところが鎌倉時代の初めに摂関家は近衛家と九条家に分裂した。両者はともに、相手に対して優位に立とうとして興福寺の掌握を試みた。その結果、興福寺の数ある院家の中で、近衛家が一乗院、九条家が大乗院に子弟を送り込むという棲み分けが成立した。その後、近衛家からは鷹司家が、九条家からは一条家と二条家が分かれたために、これらの家からも一乗院と大乗院に入るものが現われた。天皇や摂関の子弟が院主となる院家を特に「門跡」と呼ぶが、興福寺においては一乗院と大乗院が「門跡」であり、興福寺のほとんどの院坊はどちらかの門跡の傘下に入り、門跡を頂点とする主従制的な門流組織が形成された。

 こうした制度が成立したことにより、摂関家子弟の門主就任は、その門跡の莫大な財産を相続するということを意味するようになった。しかも支配下の院家に影響力を行使することもできる。こうした門流支配の深化は、荘園などの利権をめぐる門跡間の抗争を引き起こすことにもなった。

 このような抗争の結果として起きた鬪乱の実働部隊として活躍したのが衆徒(しゅと=武装する下位の僧侶)である。さらに鎌倉時代末期になると、衆徒は六方と官符衆徒に分れ、官符衆徒(以下、衆徒)は学侶(学問に専念する僧侶)・六方の指揮下にあって、興福寺の軍事警察機構の役割を果たしたが、武力闘争が頻発するようになると、次第にその発言権を強めてきた。
 要するに衆徒は、ただ頭を丸めているというだけのことで、武士と変わらない。同じような存在とし藤原氏の氏神を祀る春日社の白衣神人(びゃくえじにん)である国民が挙げられる。国民は僧侶ではないので、衆徒と異なり頭を丸めていないし、興福寺からの自立性が強い。彼らは一乗院、あるいは大乗院に属して「坊人」とも呼ばれた。

 興福寺は、南北朝時代に全体として常に北朝方、すなわち武家(室町幕府)方であったが、鎌倉幕府同様室町幕府も興福寺に遠慮して大和には守護を設置せず、興福寺が事実上の守護の役割を演じた。南北朝の対立とは関係なしに、一乗院と大乗院は抗争を繰り返し、興福寺、そして衆徒・国民は二分された。両門跡は武力を有する衆徒・国民を自派に取り込むために、競って恩賞を与えた。この結果、一乗院領・大乗院領は衆徒・国民の手中に落ち、門跡による荘園支配は形骸化していった。
 興福寺は武家方であったが、衆徒・国民は必ずしも武家方ではなく、大和国南部の武士は南朝方であり、その中で重要なのが越智氏であった。一方、幕府方として有名なのが北部の筒井氏である。大和の国のその後の紛争は、親幕府的な一乗院方衆徒の筒井と、反幕府的な大乗院方国民の越智との対立を軸に展開した。
 大乗院と一乗院の対立により興福寺別当の支配力は弱体化し、両院の門跡が実質的に大和守護の職権を行使した。ただし南部にはその権限が及ばず、基本的には奈良と国中に限られた。室町幕府は南北朝合体後の処遇に不満を持つ南朝の後継者たち(後南朝)が大和南部の武士たちと結びつくのを恐れていたが、興福寺も同様であった。

 この書物の特徴は、語り方がゆったりしていることで、その語りに付き合っていたために、今回は第1章の2までしか要約・紹介できなかった。この調子では本題の「応仁の乱」にたどり着くのは、もう少し先のことになりそうだが、(歴史学研究者というよりも)いかにも「歴史家」的な風格を漂わせた著者の語り口には見るべきものがあると思うので、気長に付き合ってください。論述の対象が大和に限られているとはいえ、興福寺あるいは藤原氏(特に摂関家)が日本の歴史において果たしてきた役割のためであろうか、日本史の中で基本的な事柄や用語などを改めて復習できたのは収穫であった。(それに20代の半ばに、アルバイトで奈良一帯を走り回ったことを思い出して、懐かしい気持ちになったことも付け加えておきたい。)
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