『太平記』(134)

11月25日(金)晴れ

 建武2年(1335)12月11日、京都から下ってきた新田義貞の率いる宮方の追討軍と戦うべく、足利尊氏・直義兄弟は鎌倉を出発、翌日、箱根と竹ノ下一帯で官軍と激しい戦闘となった。箱根では義貞軍が優勢だったが、足利軍の主力はむしろ竹ノ下に集まっており、官軍の大友、塩冶が寝返ったことも手伝って官軍は総崩れとなった。義貞は尾張の国まで退却して足利軍の進撃を食い止めようとしたが、諸国で朝敵が蜂起したという知らせが朝廷に伝わり、後醍醐天皇は義貞を都に呼び戻して防御にあたらせることとした。
 義貞は足利軍の侵攻に備えて勢多に名和長年、宇治に楠正成、山崎には脇屋義助を向かわせて守りを固め、自らは大渡に陣を布いた。山崎の官軍は公家の侍や文観僧正の子分たちの寄せ集めで、先行きを心配するものがいた。一方尊氏は建武3年(1336)正月8日に石清水八幡宮のある男山の麓に陣を構えた。中国・四国地方から攻めあがってきた細川定禅の率いる武士たちは、赤松範資の一隊と合流して意気盛んに、摂津の芥川の宿に陣をとった。丹波路からは久下弥三郎らの武士が京都に向かったが、都に残っていた官軍の一部がこれを迎え撃って撃退した。

 前回も書いたが、このあたりの『太平記』の記述はどうもおかしい。勢多か宇治を破らないと、石清水八幡宮の近くまでは進めないのに、そうした記述がない。それで、『梅松論』を見たところ、こちらには次のように記されていた:
建武2年12月30日に伊岐代神社に立て籠もっていた僧兵たちを破ったのちに、足利軍は兵力を分けて、勢田には直義が向かい、副将として高師泰、淀には畠山上総介(畠山氏は足利一族)、芋洗は吉見三河守(吉見氏は頼朝の弟範頼の子孫)、宇治には尊氏自らが向かうこととなった。京方の勢田の大将は千種忠顕、結城親光、名和長年で、正月3日から戦闘が開始された。尊氏は日原路を経て宇治に向かった。この時、元弘3年(1333)に奥羽に派遣されていた北畠顕家が大軍を率いて都の救援に近づいてきたといううわさが流れた。京方では義貞が宇治に向かい、ここで防備を固めた。
 尊氏と義貞が宇治で対決したという方が、大渡で対決したというよりも納得がいく。森茂暁さんは『戦争の日本史⑧ 南北朝の動乱』(吉川弘文館、2007)のなかで、「建武2年の後半、新田義貞の軍を追いつつ、同時に北畠顕家の率いる奥州軍に追われる格好で」(75ページ)と義貞・直義軍の動きをまとめていて、北畠顕家の動きを視野に入れている点でも『梅松論』の方が歴史的な事実に近いのではないかと思われる。

 建武3年(1336)正月9日、辰の刻(午前8時ごろ)に、尊氏は80万騎の兵を率いて大渡の橋の西のたもとに押し寄せた。川を渡るべきか、橋を渡るべきか(橋は渡りにくくしてある)軍議を凝らしていると、新田軍の陣から「足利殿が搦め手からの軍勢といてあてにしていた丹波路の軍勢を昨日追い散らした。ここに並ぶ旗の紋を見れば、主力群である。なぜ、この川を渡らないのか。むかし、宇治川を渡った武士は(足利又太郎忠綱や佐々木四郎高綱のように)名を挙げたではないか」などといい、口々に「川を渡れ」というので、尊氏に従っている武蔵、相模の兵たちは「敵に招かれて、このように言われては、どんな深い川でも渡らないわけにはいかない」と、一度に馬を乗り入れようとする。
 そこへ尊氏の執事である高師直が馬を走らせて兵たちを遮り、「どうかしてしまったのか、昔は昔、今は今、しばらく気持ちを落ち着けなさい。近くの民家を壊していかだをつくって渡ろう」と指示をする。(戦争中だとはいえ、家を壊される人の立場になってみると、とんでもないとばっちりである。) そこでその命令に従って近くの民家を壊し、長さ2,3町(1町は約109メートル)といういかだを組んだ。武蔵、相模の兵が500人余りこれに乗って渡ろうとするが、川の中に打ち込まれていた乱杭に引っかかって竿を指してもいかだは進まない。うろうろしているところを向こう岸から新田軍は雨が降るように矢を射かけてくる。いかだは少しも役に立たない。ぐずぐずしているうちに、川の波に揺られていかだの縄が切れてしまい、いかだがばらばらになって、乗っていた500余人の兵たちは、みな水におぼれて死んでしまった。(高師直の作戦は浅知恵だったのだが、「昔は昔、今は今」という言い方がいかにも彼らしい。) 
 ここに、師直の配下の武士たちの中に、八木与一政通という力が強く機敏な身ごなしの兵がいたが、胴丸という胴だけの略式の鎧の上に、大鎧を重ねて着て、獅子頭の兜に顔から顎を頬当てで覆って、4尺3寸の太刀を指し、5尺余りの備前長刀を右の脇に挟み、「どけどけ、敵に向かって打ってかかるからにはたとえ、天竺の石橋(実際には天竺=インドではなくて、中国浙江省の天台山にあった滝の上の石橋)、蜀(四川省)の断崖にかけられた梯の道であろうとも、渡れないということがあろうかと、橋げたの上を進んでいく。櫓の上や、掻楯の影に身を潜めていた新田軍の兵たちが矢を次々に弦につがえて射るが、八木はわき目も降らず懸命に進むところに、結城重光の郎等が2人、橋げたを渡って後に続いてきた。政通はいよいよ元気づいて櫓の下にもぐりこんで、その柱をゆすったので、櫓の上の武士たちはかなわないと飛び降りて、二の木戸の中に逃げ込んだので、足利勢の80万騎は箙をたたいて大笑いした。

 「それ、敵はひくぞ」という言う間もなく、足利勢は我先にと渡ろうとするが、後ろから押し落とされたり、前が詰まっているために落とされたりして、橋から落ちて、水におぼれるものが大勢出る。それでもかまわずに、たいして丈夫でもない橋の上に靴底に打った鋲のようにびっしりと兵が密集して攻め寄せたので、橋げたが4,5間中から折れて、1,000余人の兵たちが川に落ち、浮き沈みしながら川を流されていった。しかし、八木は水泳が達者なので、橋板1枚に乗って長刀を竿にして、元の陣へと帰ってきた。これから後は、橋を渡ろうともせず、いかだを組もうともせずに、時間を持て余しながら足利軍は待機していた。

 岩波文庫は古本系の西洞院本を底本としているので、比較的簡単に記述されているが、新潮日本古典集成の方は流布本を使っているので、もっと尾ひれがついている。しかし、戦闘が展開されたのが、大渡においてなのか、宇治においてなのかの方が重要な問題である。『梅松論』では八木が野木になっていて、高師直ではなく、彼もまた結城重光の家臣ということになっている。結城氏は本家筋の下総結城氏と分家筋の白河結城氏に分れていたが、白河結城氏の親光が建武新政権で重用されたのに対し、下総結城氏は足利方についた。結城重光は常陸結城氏ということで、重光という名からすると白河結城氏に近いはずだが、足利軍に加わっている。『梅松論』では八木は尊氏から称賛され、腰のものを拝領したと記されているが、彼についての詳しいことはわからないようである。

 義貞と尊氏が川を挟んで対峙する、竜虎激突ともいえる局面であるが、義貞にとっては思いがけず(あるいは予期していた心配がその通りになって)、新しい事態を迎えることになるが、それはまた次回。
 
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