ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(7-1)

11月22日(火)晴れ、温暖

 ベアトリーチェに導かれて天空の世界へと旅立ったダンテは、月天で誓願を果たさなかった人々の魂に出会ったのち、水星天に達した。そこで彼は地上での栄光を追い求めた人々の魂に迎えられる。魂たちの一人は、ローマ法を集成した法典の編纂を命じた立法者であり、東ローマ帝国の皇帝であったユスティニアヌスであると名乗り、神与の世俗の統治権がローマの始祖から発し、共和制を経てローマ皇帝に受け継がれてきたその来歴と、さらに世界の現状について語った。

「ホサナ(たたえよ)、万軍を率いる聖なる神を、
これら諸王国にいる祝福された火に
その光で輝きの極みを与えたまう方を」。

このように、自らが奏でる旋律に合わせて回転し、
その実体の歌う姿が私には見えた。
その上では二つの光が一体となっているのだ。

そして彼や他の実体は彼らの踊りをはじめると、
この上なく素早く飛び去る火花さながら、
急に広がった距離ゆえに私の視界から隠れた。
(104ページ) 「ホサナ」で始まる第7歌の最初の3行はラテン語とヘブライ語の混合文で書かれているそうである。「その実体」(=ユスティニアヌスの魂)はこのように歌いながら回転する。「二つの光」は立法者と善き統治者としての二重の栄光を表す。そして他の魂とともに、踊りながらダンテから遠ざかっていった。

 ユスティニアヌスの話を聞いて、ダンテの胸中にはまた新たな疑問が浮かんできたが、それについてベアトリーチェが答える。ここで、彼女の言葉が神の言葉であることを暗示するため、その時のダンテは聖書に出てくる預言者の眠りに襲われた。
 ダンテの疑問とは、
いかにして、正義の復讐が正義にのっとって
罰せられうるのか、・・・
(106ページ) 人類の原罪をキリストが負って十字架上でその罰を受けたという「正義の復讐」について、それが正しい裁きであるのに、なぜ再びその後で、正義を執行した人々が「正義にのっとって/罰せられ」るのかということであった。
 翻訳者である原さんの説明によると、ここでダンテはローマ帝国の統治の正統性に対する教会の攻撃を弁護しているのであるという。もともと、教会はローマ帝国を敵と見なしていた。たとえば「ヨハネの黙示録」の中の7つの首を持つ怪物に乗った怪物に乗った娼婦は帝政ローマを表していた(ダンテは逆に「煉獄篇」第32歌でこれを7つの丘に囲まれたローマの教皇庁の表象とした)。実際に「ヨハネの黙示録」を読んでみたのだが、怪物は7つの首と、10本の角を持っていることになっていて、それでは10本の角というのはどういうことか、7とか、10とかいうのは象徴的な意味を与えられた数字ではないのかという疑問を抱いた(余計なことを書いておくと、ローマの7つの丘というのが具体的にどの丘とどの丘かということについては、定説はないようである。さらに余計なことを付け足すと、ポルトガルのリスボンと、スコットランドのエディンバラは7つの丘のある都といわれる。どうも両方とも7つ以上丘があるらしいのだが、恰好を付けて、そういっているようである。)

 ダンテの時代、教会は教会が地上を支配すればこの世界は幸福になると主張し、神聖ローマ帝国の皇帝たちと対立した。(そういう教会や僧侶が支配する政治形態を神権政治theocracyという。現実にそういう政権が存在した事例もあるが、そこで人々が幸福に暮らしたという証拠はない。) このような主張の裏には、キリスト処刑がローマ帝国の名のもとに行われたことや、ティトゥス帝による聖地エルサレム破壊などがあった。

 ベアトリーチェの答えは次のようなものである。
人から生まれた訳ではないあの男は、希望という能力に対して
彼のために設けられた禁忌を守らなかったため、
自らを罪人に貶め、同時に彼の全子孫をも罪人に貶めました。

そのために病める人類は幾世紀にもわたり
大いなる過ちのうちに臥せることになりました。
(106ページ) 「人から生まれた訳ではない」アダムが原罪を犯したために、その子孫である人類は神の恩寵を失って地上で生きてきたという。

 しかし神性と人性とを併せ持つ神の子イエスが、その人性の部分で人類の原罪の贖罪を果たした
それゆえ十字架が負わせた罰は、
身に帯びられた人性と秤にかけるならば、
これほど正しく責め苛んだものはありません。
(108ページ) ローマ法にのっとったその罰は正しいと主張されている。

そして同時に、それを受けた位格を鑑みれば、
これほど不正義な罰もありませんでした。
その位格の中に罪深い人性が一体化していたのです。
(同上) しかし同時に、三位一体の神の第二の位格である神の子としては、罪なくして受けたその罰は不当であるという。

そのため一つの行為から異なった結果が現れました。
つまり一つの死が神の御心をもユダヤ人たちの心をも喜ばせ、
その死ゆえに大地は揺れ、また空も開かれたのです。
(同上) その罰は、神からは人類の罪を許せるために、ユダヤ教信者たちからは(原さんがここで「ユダヤ教」という言い方をしているのは、厳密さを欠いていると思うのだが)イエス・キリストの神性を否定できるがゆえに喜ばれた。ユダヤ人は、キリストが神の子であり救世主であるといったことに対して怒り、彼を死罪にした。そのため神の子を殺した罪を恐れて大地が揺れた。神は、キリストの負ったアダム以来の人性に対し正義の罰を下した。結果、天国の門が人類に開かれた。そして、ユダヤ人の犯したこの瀆神の罪への罰としてユダヤ人たちの都エルサレムが、神の正義を体現するローマによって滅ぼされたという。

 さらにベアトリーチェは、神がなぜ人の子として地上に生まれ出て贖罪をしなければならなかったのか、その理由を説明する。
神の善、向けられたあらゆる妬みを
寄せつけぬそれは、自ら燃え続けて火花を周囲に放ち、
永遠に美しき者達を生じさせています。
(110ページ) 「神の善」が光線となって被造物に到達するとそれは美となって輝き、神によって直接創造されたそれらの事物は永遠である。人間もまた「神の善」つまり神によって直接に創造されるために永遠の存在となり、「新たな事物」である諸天空の影響からは自由な意志をもち、その「善」である神に似ていて、その神の「聖なる火炎」を反射して輝いている。
人として創造された類はこれらの贈り物すべての
恩恵を受けています。そして一つでも欠ければ、
その高貴さから失墜することになるのです。
(111ページ) 「贈り物すべて」は永遠、自由、神に似ていることであるという。

 歴史上のイエスがローマ当局によって処刑されたのは、おそらくはユダヤ人たちの指導的な層の宗教的な権威を覆そうとしていることが警戒され、そのことが治安の維持にとって危険であると考えられたからであって(加藤隆『『新約聖書』の誕生』によるとイエスとともに処刑された2人の「強盗」はユダヤの独立の回復のためにはテロも辞さない熱心党=ゼロテ派のメンバーであった可能性が高いという)、それを原罪の贖罪のためというのはこじつけであると批判を受けてもしかたのないところがある。この第7歌におけるダンテの議論はかなり苦しいところがあるように思うのだが、いかがだろうか。ベアトリーチェの説明はさらに続くが、それはまた次回。
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