『太平記』(133)

11月18日(金)晴れ

 建武2年(1335)11月19日に朝敵追討の宣旨を賜って鎌倉へと攻め寄せる新田義貞の軍に対抗すべく、12月11日に足利尊氏と直義が出陣、翌日、箱根、竹ノ下一帯で官軍と激しい戦闘となった。義貞と直義が戦った箱根では、義貞軍が優勢であったが、尊良親王を大将とし、義貞の弟の脇屋義助を副将とする官軍の搦め手の軍勢が向かった竹ノ下では、尊氏の率いる大軍との戦いとなり、それまで官軍に属していた大友・塩冶が裏切ったこともあって、官軍は壊滅的な大敗を喫し、箱根からも脱走者が続出し、義貞は尾張まで退却せざるを得なかった。同じ時期に、四国、中国、北陸で尊氏・直義に呼応する武士たちが兵をあげ、各地で勢力を拡大したので、その知らせに驚いた朝廷は義貞を京都へ呼び戻した。

 建武3年(1336)の新年になったが、内裏では朝拝(元日に帝が臣下から祝賀を受ける儀式)も行われず、節会(元日に帝の隣席のもとで行われる宴)も行われなかった。京の白河(鴨川以東の地域)では家を壊して、その材木でいかだを組んで堀に入れ、財宝を積んで持ち運び、どうしようというあてもなく、ただ騒いでいた。

 そうこうするうちに、尊氏が80万騎の軍勢を率いて美濃、尾張に到着したという知らせが届く、その一方で四国の武士たちも近づいてくる、山陰道の朝敵も、ただ今、大江山(おいのやま=山城・丹波の国境にある大枝山、京都市西京区大江沓掛町)に差し掛かってきたなどといううわさが伝わり、地方から京都に出てきた軍勢の大部分が、あちこちに逃げ去ってしまったので、京都に残っている軍勢は1万騎もないと思えるほどであった。その残った軍勢も戦を前にして勇み立っている様子はない。どこそこへ出陣せよと命令を下しても、まったくいうことを聞こうとしない。そこで、軍勢を勇気づけるために「今度の戦いにおいて、忠あるものにはただちに恩賞が与えられるだろう」という張り紙を雑訴決断所に張り出した。これを見て、その箇条書きの奥に、礼によって落書きをしたものがいる。
 かくばかりたらさせ給ふ綸言の汗の如くになど流るらん
(第2分冊、404ページ、「綸言汗のごとし(帝の言は取り消せない)」というが、これほど人をだます綸言が、なぜ汗のようにたくさん出るのか。「たらす」には「だます」という意味と、汗などを垂らすという場合の意味とがあり、その両者を掛けている。)

 正月7日、義貞は内裏より退出して、軍勢の手分けを行った。琵琶湖の南端、瀬田側への注ぎ口である勢多(滋賀県大津市瀬田)には名和長年を大将として、出雲、伯耆、因幡3か国の武士たち2,000騎を付けて向かわせた。瀬田川の供御の瀬、かかや瀬の2か所に、大木を数千本流しかけて、大きな綱を張り、乱杭を引っ懸け引っ懸けつないだので、どのような水泳の名手、水辺での戦いの巧者でもその上を泳ぎ、下をくぐって渡ることは難しいと思われた。

 宇治へは楠正成を大将として、大和、河内、和泉、紀伊の国の武士たち5,000余騎を添えて向かわせた。宇治橋の橋板を4、5間(1間は約1.8メートル)外し、川の中に大きな石を積み上げ、逆茂木(とげのある木の枝で作った防御の策)を数多く立てて、東の岸を屏風のように切り取ったので、川の水は2つに分れて、急流となって流れるようになったので、その水勢は中国の龍門の3段の滝を思わせるものであった。敵に簡単には陣をとらせまいというので、宇治川の中州にあった橘の小島、槙島、西岸の平等院の付近を焼き払おうとしたのだが、折からの強風で宇治の平等院の仏閣、宝蔵がたちまちに焼け落ちてしまったのはあさましいことであった。
 宇治の平等院は藤原頼通が創建した寺院で、摂関時代の栄華の面影を伝えている。その宝蔵は酒呑童子の首が収められているというように伝説的な宝物の宝庫であったといわれる。したがって、ここで正成がそれを焼いてしまったのは、取り返しのない失策であったという認識が『太平記』の作者にはあったと思われる。

 山崎(京都府乙訓郡大山崎町)には義貞の弟である脇屋義助を大将として、公家の洞院公泰、文観僧正、竹ノ下で足利方に裏切った大友貞載の弟の千代松丸(氏泰)、宇都宮泰藤、海老名五郎左衛門尉、但馬の武士である長九郎左衛門尉以下、7,000余騎の兵を向かわせた。財(たから)寺から淀川の川端まで兵を塗り、堀を掘り、高櫓300か所ほどを築きならべて防備を固めて、堂々として立派に見えたが、主力となっているのが公家侍や文観の手下たちなので、この戦もうまくいくまいと(誰ともなしに)評判されていたのである。
 名和長年が守る瀬田や楠正成が守る宇治に比べて、軍勢が多いのは兵力がそろっておらず、その点が心配だったからであろう。脇屋義助は竹ノ下の戦いでも、皇族や公家とともに戦って(ご本人は剛勇なのだが、味方に足を引っ張られて)敗北しており、今回も同じような編成の軍勢を指揮することになり、どうも気の毒なことになりそうである。文観が多くの手下を集め、その手下たちが洛中で横暴をきわめて顰蹙を買っていたことは、12巻に記されていた。海老名五郎左衛門というのは、岩波文庫版の脚注では武蔵七党の中の横山党の武士ということであるが、神奈川県の海老名の出身であろう。横山党は神奈川県一帯に勢力を張っていたので、海老名にその一人がいても不思議はない。 財寺は京都府乙訓郡大山崎町の宝積寺(ほうしゃくじ、別名宝寺)で、後に、山崎の戦の際に羽柴秀吉がここに陣を構える。実は学生時代によく合宿所としてお邪魔したお寺である。

 桂川・宇治川・木津川の合流点近くの大渡には義貞自身が大将として赴き、一族の里見、鳥山、山名、田中、足利一族でなぜか義貞に従っている桃井、その他籠守沢(こもりざわ)、千葉、宇都宮、菊池、結城、池、風間、小国、河内の兵1万余騎を引き連れていた。岩波文庫版の脚注によると、この大部分が義貞とともに尊氏・直義追討のために関東に向かった武士たちである。大渡は交通の要所なので、橋がかけられていたが、ここでも橋板を3間落とし、橋の中央よりも東の方に垣のように盾を並べ、櫓を構えて支えた。厳重な陣容で、飛ぶ鳥もその上を超すことができないように思われた。
 義貞軍は橋の東の方に陣を構えているのである。

 一方、尊氏は80万余騎を率いて、正月7日、近江国伊岐洲(いきす)社(滋賀県草津市片岡町の印岐志呂神社)に山法師が2,000余騎で立て籠もっていたのを、一日一夜に攻め落として、8日には石清水八幡宮のある男山の麓に陣を構えた。
 ということは名和長年の守る瀬田の渡しのはるかに南を通って、京都市の南の方に進んだということであろうか。

 細川定禅は四国、中国地方の軍勢を率いて、正月2日に播磨国大蔵谷(兵庫県明石市大倉谷)に到着したところ、赤松円心の長男である赤丸範資(のりすけ)が備前の国に下って挙兵しようと、京都から逃げ下ってきたのに出会い、お互いに喜んで一緒になった。元弘3年に赤松軍が京都の六波羅勢を攻め滅ぼしためでたい先例があるからといって、赤松を先陣にして、合計してその勢2万3千余騎、正月8日の午刻(正午ごろ)に芥川の宿(大阪府高槻市芥川町)に陣をとる。

 また、山陰道から京都に迫ろうとしている久下弥三郎、波々伯部為光、酒井真信は但馬、丹後の軍勢と合流して6,000余騎で、二条師基が立て籠もっていた西山の峰堂(京都市西京区御陵峰ケ堂町にあった法華山寺)を攻め落とし、正月8日の夜半から大江山の峠でかがり火をたいた。

 京都市内には、様子を見て、劣勢になった方面を助けに行こうと、新田一族の30人、諸国の兵5,000余騎を残していたので、大江山の敵を追い払うべしということで、新田一族の江田行義を大将として、3,000余騎を丹波路に向かわせた。この軍勢は、正月8日に桂川を渡り、朝早いうちに大江山に押し寄せ、戦闘開始の遠矢を射たのちに、一斉に刀を抜いて攻め上っていったところ、武家型の先陣で戦っていた久下弥三郎の弟の五郎が戦死した。これを見て、後に続いていた武士たちは、馬に鞭を討って退却していったので、官軍は、少し勇猛心を取り戻した。

 尊氏・直義の率いる軍勢は80万余騎と号し、細川・赤松が2万3千、久下が6千ということだから、3万余騎に満たない官軍に勝ち目はないはずだが、東国での義貞と直義の戦いを見ればわかるように、数の多寡はあてにならない。実際に大江山の戦闘で久下の率いる軍勢は6千、江田行義の率いている兵の2倍はあるが、先陣の武将が戦死すると、後に続く武士たちは逃げてしまうというように、武家方の士気は決して高くないのである。それに指揮官の能力の問題もあって、官軍はまだまだ戦闘能力を失ってはいない。(そうはいっても、戦局が進むにつれて、この数の差が次第に影響力を増してくる。)
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR