『太平記』(132)

11月13日(日)晴れ、気温上昇

 建武2年(1335)11月19日、新田義貞は朝敵追討の宣旨を賜り、東海道を下る大手、東山道を下る搦め手の軍勢を率いて、鎌倉に向かった。鎌倉では直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は伯父である上杉憲房らの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦に敗れ、鷺坂、手越でも敗退した。鎌倉に帰った直義は、尊氏に偽の綸旨を見せて出家を思いとどまらせた。12月11日、尊氏と直義は出陣し、翌日、箱根、竹ノ下一帯で官軍と激しい戦闘となった。箱根では義貞軍が直義の軍勢に対して優勢だったが、竹ノ下の戦闘で大友、塩冶が尊氏方に寝返り、官軍は総崩れとなって、尾張国まで退却した。このような情勢の中で12月10日、四国から足利一族の細川定禅が旗を挙げて、四国の宮方を打ち破り、瀬戸内海を渡って、備前に侵攻したという知らせ、11日には備前から土地の武士たちが反乱を起こしたという知らせが届いた。

 2日間続けて急な知らせが届いたことで、後醍醐天皇は驚かれて、どうすればよいかと落ち着かないご様子になったのであるが、さらに翌日の午刻(正午頃)に丹波の国からまた早馬による知らせが届いた。先月の19日に丹波の武士である久下時重(第9巻で尊氏が丹波・篠村で討幕の兵をあげた際に一番に駆け付けた武士)が波々伯部(ほうかべ)次郎左衛門、中沢三郎入道ら丹波篠山に住む武士たちと相談して、丹波の守護を攻め、急なことで備えが十分でなかったために、守護の軍勢は摂津まで退却した。それでもまだ、新しい加勢が得られれば反撃できると、赤松入道(円心)に使者を送って味方になるように頼んだが、円心は叛意を抱いているために、返答もよこさないどころか、尊氏の命令書があるといって、国中の武士たちを仲間に引き入れようと画策しているという噂である。それだけでなく、但馬、丹後、丹波の朝敵たちは、備前、備中の軍勢を待って、同時に山陰、山陽の両道から京都に攻め寄せようと計画しているとの情報もある。御用心あるべきであるという。

 さらにその日の酉刻(午後6時ごろ)に能登国石動山(加賀・能登・越中の山岳信仰の中心であった天平寺、現在は廃寺)の衆徒(僧兵)の方から飛脚をもって伝えてきたのは、「11月27日に越中国の守護である普門(井上)利清が越中の武士である井口、野尻、波多野らとともに、尊氏の命令書があるといって能登と越中の武士たちを集め、反逆を企てた。このため国司である中院貞清は、要害の地である石動山を選んで立て籠もっていたところ、今月12日に謀叛の者たちが大軍となって押し寄せてきたので、石動山の衆徒たちは国司の軍勢に味方して必死で戦ったのだが、第一陣が敵勢を防ぐことができずに、貞清朝臣は戦死してしまった。寺院はことごとく兵火のために焼け落ちてしまった。これよりいよいよ反乱は勢いを増し、京都に攻め上ろうとしている。急ぎ、加勢を送ってほしいという。

 これだけで終わらず、加賀では富樫高家、越前では足利一族の斯波高経の配下の武士たち、伊予の河野対馬守(通治、六波羅の攻防戦で北条方の武士として活躍していたが、生き延びていた)、長門では守護の厚東(こうとう)、安芸の熊谷(源平の合戦で活躍した熊谷次郎直実の子孫)、周防に大内弘幸とその一族、備後に江田、弘沢、宮、三善、出雲に富田、伯耆に波多野、因幡に矢部、小幡、このほか日本全国から反乱がおきたという情報が伝わり、後醍醐天皇をはじめとして公家や彼らに仕える寿司たちは、一人残らず肝を冷やしたのであった。

 そのころ、何者かが、内裏正殿の紫宸殿の正面にある内裏内郭の承明門(流布本では大内裏の東面北端の陽明門)に一首の狂歌を書き付けた。
 賢王の横言になる世の中は上を下にぞ返したりける
(第2分冊、401ページ、賢王が道理にもとる勝手な言を吐く世の中は、上を下にひっくり返す混乱の世となった。賢王を上下ひっくり返すとオウケン(横言)となるという洒落)

 四方八方から朝敵が蜂起するという知らせが届き、事態は急を告げてきたので、引田九郎という武士が勅使となって新田義貞のもとに向かった。義貞は尊氏・直義の軍勢が上洛するのを防ごうと尾張に留まっていたのである。事ここに及んでは、都を防衛するために戻るべしと伝えることになった。引田九郎は出雲の塩冶高貞から後醍醐天皇に献上されていた駿馬(第13巻に登場していた)に乗って、早馬で使いに出た。この馬に乗ると4,5日かかる行程を1日のうちに往復できるといわれていた。馬に鞭を当てて走ると、まさしく思った通り、12月19日の辰刻(午前8時ごろ)に経を出発して、その日の午刻(正午)に近江国愛智川(滋賀県愛知郡愛荘町)の宿に到着した。ところが、この宿で、駿馬は様子がおかしくなり、そのまますぐに死んでしまった。こんなことが起きてしまうと、こうなるだろうという前兆として、前もってこの馬が出現したのだと思われてきた。いまさらながら、万里小路中納言藤房卿が、天皇に諫言として、「天馬が必要になる場合を考えますと、帝への謀叛が起きた時に、遠くの地方にその急を告げるときです。泰平の朝廷において、反乱がおきたときの準備となるものが現れるというのは、不吉な前兆ではないでしょうか」と申し上げたのは、こういうことを予測されていたのかと思い当たるのであった。

 そうこうするうちに、引田は予備の馬に乗って、時間をかけて尾張の国に到着し、天皇のご命令の趣旨を義貞に伝えた。「そういうことであれば、まず京都へ引き返して、宇治橋を支えて味方の軍勢に合戦をさせよう」と上洛することにしたのである。

 情勢は急変してきた。後醍醐天皇が尊氏討伐を決心されたのは、護良親王殺害の件(これは、尊氏ではなくて直義が命令したのであり、親王を遠ざけたことについては天皇にも責任があるはずである)と、全国に将軍の御教書(命令書)を発行して武士たちを動員しようとしたことのためである。これら2つの理由の中では、あとの方が大きかったように思われる。しかし、討伐軍が派遣されるという情報が届く中で、尊氏は両方とも自分の関知しないことであると取り合わなかったと記されていた。とは言うものの、これまでの経緯を見ると、御教書は各地の武士たちに確実に届き、そして彼らは動き始めているのである。この間の事情が現代の歴史研究者によってどのように整理されているかというと、森茂暁さんが『足利直義』(角川選書)で書かれていることがわかりやすい。諸国の武士たちが「御教書」と受け取った文書は、軍勢督促状であり、その発行者ははじめのうちは直義、12月13日以降になって尊氏であるという。「逡巡する尊氏を後目に、直義は素早く軍事的な対応策をとっている」(『足利直義』、43-4ページ)。このように事態が急変する中では、決断が早い方が(その決断の内容にもよるが)有利である。後醍醐天皇から新田義貞のもとに向かった使者が途中で駿馬の急死という事態に会って遅れたのは、その意味でも不吉に思われる。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR