植草甚一『ぼくは散歩と雑学がすき』(1)

4月25日(木)晴れ

 JJ氏こと植草甚一さん(1908-1979)とは一度すれ違ったことがある。もう40年も昔のこと、京都の河原町通りの本屋で本を買ったら、店員さんが私の前に買い物をしたお客の噂をしている。その人がJJ氏だったというわけである。当時、植草さんの本はよく立ち読みしていて、この『ぼくは散歩と雑学がすき』の書き出しなど、何度も読んだおかげで今でも記憶しているが、とうとうそこから進まなかった。今、植草さんの本を読んで、もっと早い時期に読んで知識を蓄えておけばよかったと思う個所が少なくない、その一方で呼んでも読まなくてもいいやと思うような部分もある。それが雑学の雑学たるゆえんである。

 例えば、昨日の当ブログでフリッツ・ラングの『暗黒街の弾痕』(You Only Live Once)について触れたが、この作品について植草さんはポーリン・ケールというアメリカの映画批評家の『俺たちに明日はない』(Bonnie and Clyde)に至るアンチ・ヒロイズムの映画の系譜で論じた文章を紹介している((214-222ページ)。視野を広げることのできる文章である。他人の文章を要約紹介しただけじゃないかなどというなかれ。目をつけただけで立派である。

 スタンリー・キューブリック(植草さんはクブリックと表記している)についての文章、特に彼の『博士の異常な愛情』をめぐる「人間の想像力には限度があるし、政治家にしろ軍事家にしろ、リアリティには、とてもかなわないんだ」(236ページ)という指摘には植草さんの想定範囲の広さとその限界への自覚が示されている。

 4月23日の当ブログで映画『横道世之介』について論じたとき、≪教養小説≫について筆を滑らせたが、この点に関連して植草さんが、1970年代のアメリカの青年の生き方をめぐる小説について論じながら、「アメリカの小説を読んでいるとき、これは奇妙な珍しい特徴だと思うのは、青年期にたっした年ごろの主人公が、ほとんどいつも描けていないということである」(319ページ)と述べ、その一方で「ドイツ教養小説」との類似性を述べているのも注目に値する。「どっちも主人公が学生であってあらゆる経験は、たちどころに哲学化され、その価値判断は作者の独り合点できまってしまうからだ」(320ページ)。ドイツ文学にはほとんど縁がないし、アメリカ文学も多少かじっただけだからこの点については論評できない。しかし記憶しておこうと思う意見である。

 そういうわけで他人の意見を面白がって要約・紹介する文章が多いのだが、その面白がっているところに著者の持ち味が出ている。当ブログもそのように楽しんで書き進めたいものである。

 まだ読み終えていないので、読み終えたらこの続きを書く(かもしれない)。
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