『太平記』(131)

11月5日(土)晴れ、等々力総合競技場から富士山が見えた。

 建武2年(1335年)11月19日、新田義貞は朝敵追討の宣旨を賜り、東国で武家政権樹立への動きを見せる足利尊氏を討伐すべく、鎌倉へと兵を進めた。鎌倉では、直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は上杉憲房らの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦に敗れ、鷺坂、手越でも敗退した。鎌倉に帰った直義は、尊氏に偽の綸旨を見せて出家を思いとどまらせた。12月11日、尊氏と直義は出陣し、翌日、箱根、竹ノ下一帯で官軍と激しい戦闘となった。箱根では義貞軍が優勢だったが、竹之下の戦闘で大友、塩冶が尊氏方に寝返り、総崩れとなった官軍は、尾張国まで退却した。

 そうこうするうちに12月10日、讃岐国(香川県)の住人である高松三郎頼重から早馬による連絡があった。足利の一族である細川定善(じょうぜん)が11月26日にわずか16騎で兵をあげたところ、讃岐藤原氏の詫間、香西らがこれに加勢し、たちまちその勢力は300余騎となった。頼重はすぐに討伐しようと国中の武士たちに召集をかけたのだが、定禅が先手を打って夜討ちをかけてきたうえに、土地の軍勢が裏切ったために、頼重らは必死になって戦ったのだが大敗してしまった。讃岐藤原氏の詫間・香西讃岐橘氏の寒川・三木などの武士たちが残らず定禅の味方について、その数は3,000余騎に達した。最近では瀬戸内海を渡って、備前(岡山県)の児島につき、京都へ攻め上る準備をしている。御用心くださいというのである。(江戸時代に高松の城主となったのが、水戸黄門の兄の松平頼重だったというのは偶然ではあるが、面白い符合である。また、この後も、細川氏は阿波=徳島県を中心に活動を続ける)。

 このような情報を受けても、京都には新田義顕(義貞の長男)をはじめ、結城親光、名和長年、楠正成をはじめ、主だった大名たちがそろっているので、四国の朝敵たちが攻め上ってきても、大したことはあるまいと驚き慌てることはなかったのだが、同じく11日に、備前の国の住人である児島三郎高徳のもとからも早馬による連絡があった。11月26日に、備前の佐々木一族である佐々木信胤と田井新(たいしん)信高らが細川定禅の誘いに乗って、備中の国に兵を進め、福山城に立てこもったので、備中の国の目代(=国司の代官)が自分の部下たちを引き連れて討伐に向かったが、国中の武士たちはそれに合流しようとせず、衆寡敵せずで引き上げようとすると、敵軍は勝ちに乗じて目代の軍勢に襲い掛かって、数百人が討ち死にをした。その翌日に備中の武士たちが反乱軍にはせ加わり、間もなくその軍勢も3,000余騎になろうとしている。
 そこで備前の国の地頭、御家人らが備中の国の一の宮である吉備津神社(岡山市北区吉備津)に集まって、反乱軍を待ち受けていたところ、出雲の武士である朝山備後の守が、備後の守護職に任じられて任地に向かってきたところだったので、その軍勢を合わせて11月28日に、福山城に攻め寄せた。児島高徳の一党は大手を打ち破り、城中に入ろうとしていたところに、叛心を抱く在地武士たちが、急に裏切って味方に矢を射かけてきたために、搦め手の軍勢が多くの死者を出して敗退してしまった。
 官軍はついに負け戦となり、備前国に引き返して三石城(岡山県備前市三石)に立て籠もっていたところ、備前の守護に任じられた松田十郎盛朝らが到着したので、その軍勢を合わせてまた引き返し、備前の和気の宿(岡山県和気郡和気町)で合戦に及んだ。その夜、官軍に加わっていた備前の武士内藤弥次郎がひそかに敵を味方の陣営に引き入れ、敵が味方の陣地を攻め取っている間に、官軍は散り散りになってしまった。高徳の一族はかろうじて逃げのびて、山林に身を隠し、味方の到着を待っているところである。すぐに援軍を派遣されないと、西国(この場合は中国・四国)の動乱は取り返しのつかないことになるだろう。

 このように中国・四国地方で少なからぬ武士たちが建武政権に反旗を翻した。その他の地域でも反乱が次々に起きた。上横手雅敬はその著『日本史の快楽』(角川文庫)の中で、大正・昭和戦前期の小学校の国定教科書が建武政権の失政について触れずに、武士たちが「大義名分」を忘れたことから政権は崩壊したと説明していたことに触れ、歴史が「道徳的色彩」を帯びてきたことに苦言を述べているが、各地の武士たちが反旗を翻したのは、よく言えば、その方が自分たちの暮らしがよくなると考えたから、悪く言えば、欲に目がくらんだからであり、「大義名分」はそういう身の振り方を正当化するための方便の1つでしかなかったことが、このあたりの登場人物の行動を見ているとよくわかる。

 備前の国の武士であったといわれる児島高徳については、すでに第4巻で、隠岐に流される途中の後醍醐天皇の救出を試みて失敗した話、第8巻で京都の攻略のため大軍を率いて押し寄せて大敗した千種忠顕の臆病ぶりに憤慨した話をはじめとして、何度か登場している。『太平記』以外の書物に登場しないこと、物語の進行の中で『太平記』の作者の心情を伝えるような役割で登場していることから、実在性を疑う、あるいは、何人かの人物の事績を1人の人間のこととしてまとめたのではないかと考える意見もある。その一方で、『洞院公定日記』の応安7年(1374)5月3日の条に記されている「伝聞、去廿八九日之間、小嶋法師円寂云々、是近日翫天下太平記作者也、凡雖為卑賎之器、有名匠聞、可謂無念」(森茂暁『太平記の群像』、321ページより、伝え聞く、去る二十八・九日の間、小嶋法師円寂云々、是近日天下に翫(もてあそ)ぶ太平記の作者也。卑賎の器なりといえども、名匠の聞こえあり、無念というべし=聞くところによると、先月の28・9日の間に、小嶋法師が亡くなったとのことである。彼は最近天下で評判の高い『太平記』の作者である。卑しい身分の人物ではあるが、名匠であるとの評判であった。惜しんで余りあることである。)という「小嶋法師」は児島高徳のその後であるという説もある。(すでに述べた児島高徳の『太平記』における登場の仕方と関連させて考えると、名前の類似からのこじつけとして切り捨てるわけにはいかないように思われる。)

 さて、物語は西国以外の各地で起きた反乱に目を向けてゆくが、その具体的な様子はまた次回に。
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