大橋泰夫『出雲国誕生』

10月30日(日)曇り

 大橋泰夫『出雲国誕生』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)を読み終える。

 古代(この言葉を安易に日本の歴史にあてはめてよいのかという疑問はあるのだが…)の国郡制に基づく地方行政のシステムがどのように成立し、機能していたかを、出雲(島根県東部)における考古学的な調査の結果から明らかにしようとする書物である。このような書物の主題から、さまざまな遺跡の様子を踏まえて、主として奈良時代の出雲がどのような様相を呈していたか、それがほかの国々とどのように共通するか、あるいはしないと考えられるかということが論じられている。著者は栃木県(≒下野国)出身で、現在は島根大学の教授であり、奈良時代の日本国家にとって、それぞれ固有の意味で重要な存在と考えらえていた地方の様子をより具体的に理解しようというのが出発点であったと思われる。

 実際のところ、私はもっと古い時代の出雲の様子に興味があって、あまり内容を確かめずにこの書物を買ってしまったので、多少の違和感を持ちながら読み進むことになったのだが、出雲が日本海を隔てた対岸の異国との交流をもっていたこと、出雲における仏教の受容の具体相と神社の様子など興味深い事柄を知ることができた。律令制のもとでの地方行政制度の整備の実情を知るという著者の意図も、これらの事柄、さらには「古代」における道路(と道路行政)の実際が考古学的な知見をもとに詳しく論じられていることで、さらに補強されていると思う。

 書物は次のような構成をとっている。
古代出雲国の成立――プロローグ
姿を現した出雲国府
 地方の古代都市
 国庁の建物をさぐる
 出雲国府と国郡制の成立
郡から見た出雲国
 地方支配の拠点
 出雲国の郡家
 郡家と正倉
 動く郡家
祈りの場
 『出雲国風土記』と寺院
 仏教の浸透と広がる寺院
 出雲国分寺の造営
 出雲の神社
出雲国の道と景観
 姿を現した正西道
 官道と国府・駅
 外国への窓口としての出雲国――エピローグ

 奈良時代(とそれ以前)における出雲国の様子は天平5年(733)に中央政府に提出された地誌である『出雲国風土記』に記されている(後で論じられるが、この時点においては出雲国分寺は造営されていない)。各国にその編纂が命じられた『風土記』の中で現在、完全な形で残っているのは『出雲国風土記』だけであり、このため、この書物は出雲だけでなく、古代の日本を研究するうえで重要な史料の1つとなっている。この書物の内容と、考古学的な知見とを組み合わせて、著者は古代出雲、さらには奈良時代の日本における地方行政の整備の様相を掘り下げていくのである。

  「出雲国の中心にあったのは国府であり、『風土記』に「国庁」として記され、北側の十字街(じゅうじのちまた)付近には意宇(おう)郡家、黒田駅(くろだのうまや)、軍団が置かれていた。出雲国は松江市大草町を中心にした意宇平野に位置し、六所神社の境内地と重なって中心施設の国庁が見つかり、その後方に展開する実務的な官衙(役所)施設とともに史跡公園となっている。」(1-2ページ) 国府の設置によって、「政務と儀礼空間の国庁や実務的な官衙施設、国司館の設置、直線的で大規模な正西道の建設とそれを基準とする条里施行など、それまでの出雲になかった都市的空間が形成された。」(3ページ) 著者は国郡制の施行により、出雲においても従来になかった都市的な空間が作り上げられたことの意義を強調したいようである。(かつてはそのような都市的空間があった場所が、現在では水田が広がるだけの場所と化していることも見落とされているわけではない。)

 人民の統治を進めるうえで都を立派にすることが重要であるという考え方は『続日本紀』の神亀元年(724)年の太政官奏言に見えるという。そこでは経済的に余裕のあるものはできるだけ瓦葺の家を建てるように要望がされていた。このような歴史的背景をもとに建造された家の瓦が考古学的な遺物として残り、律令国家の成立と天界の過程を知るための手掛かりを提供しているという。そして、地方支配の拠点として設けられた国府も都に倣い、地域の人々に国家の権威を誇示するために瓦ぶきの建造物を造営し、道路を整備したのである。

 出雲国は7世紀後半に領域的な国が成立し、それに伴って国司が派遣され、国府が成立したことをきっかけとして官衙や官道が一体的に整備されたことが『出雲国風土記』によって知られる。この時代に国も地域社会も大きな変容を遂げることになる。そのような変容の実態が出雲国の国府やその他の施設の発掘を通じてわかるというのである。

 長年の発掘調査の結果として、出雲国の国府の様子は明らかにされてきている。こっくふは地方支配の拠点として、儀礼を行う国庁を中心に国司の居宅である国司館や様々な施設が設けられ、周辺には寺院や神社、工房や市、津などが置かれた。「大陸風の丹塗り白壁造りの建物が立ち並び、それまでの古墳時代から続く景観とは大きく異なる、地方における古代都市であった」(17ページ)という。

 出雲国府の創設は、考古学的な発掘調査の成果によれば7世紀後半にさかのぼり、役所に特有な大型の掘立て柱建物が見つかっている。各地の国府跡を見ると、今でもその土地の中心地となって市街化が進んでいる場合と中心地でなくなっている場合とがみられるが、出雲の場合は整備された官道の名残である十字街が細い道路の交差点として残るだけで、まったくの水田地帯となっている。また、出雲国府は、平城京のような条坊制をとったものではなく、意宇平野の中に国庁を中心にして、十字街付近が官庁街となっていたと考えられる。(各地で発掘調査が進められているが、国府についてみると、条坊制をとったものと、そうでないものが認められるという。) 

 地方行政よりも寺社に、もっと具体的に言えば国分寺、一宮、総社などがどのようにして成立していったのか、現状はどうなのかということに興味があるので、どちらかというと半身の構えで読み進んだのだが、都市と農村の対立という図式から見ると、日本の歴史にはかなり鮮明な特徴がみられるのではないかという印象を受けた。つまり、オリエントやギリシア・ローマ、さらには中国の場合、都市は自然発生的に形成されたようなのだが、日本の場合は都市を人為的に作り出していったということが特徴的に思われるし、そのことが日本の都市には城壁や環濠をめぐらす例があまりないということと結びつくようにも思われる。各地にこのような人為的な都市を作り出すという施策が相当な無理を伴っていたのではないかということも容易に想像できる。 
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出雲国風土記、なるほど

>日本の場合は都市を人為的に作り出していったということが特徴的に思われるし、そのことが日本の都市には城壁や環濠をめぐらす例があまりないということと結びつくようにも思われる。

〇記事拝見しました。
 そして日本における都市の成立、なるほど、大変参考になります。
 機会を見て、私も読んでみたくなりました。
 草々
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