『太平記』(130)

10月29日(土)曇りのち雨

 建武2年(1335年)11月、朝敵追討の宣旨を賜った新田義貞の率いる軍勢は東海道と東山道を下り、足利尊氏・直義兄弟のいる鎌倉へと向かった。鎌倉では、直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は伯父である上杉憲房らの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦に敗れ、鷺坂、手越でも敗退した。鎌倉に帰った直義は、尊氏に兄弟はたとえ出家しても討伐の対象となることに変わりはないという偽の綸旨を見せて出家を思いとどまらせた(『梅松論』では別の理由により翻意したことになっているが、いずれにしても敗戦が続いて状況が切迫したので、やむを得ず出陣したという描き方である)。12月11日、尊氏と直義は出陣し、翌日、箱根、竹ノ下一帯で官軍(義貞軍)と激しい戦闘となった。箱根では義貞軍が優勢だったが、竹ノ下の戦闘で大友、塩冶が尊氏方に寝返り、官軍は総崩れとなった。
 義貞の軍勢は箱根から退却した時には100騎に満たなかったのが、熱田大宮司、菊池の軍勢を合わせて300余騎となり、尊氏勢がすでに占拠していた伊豆の府(こう)を配下の栗生・篠塚の武勇で通り抜け、敗残の兵士たちを集めて2000余騎となって西へと向かった。

 「この勢にては、敵たとひ百重千重に取り籠(こ)むとも、などか懸け破つて徹らざるべき」(第2分冊、391ページ、この軍勢であれば、敵がたとえ百重、千重に取り囲んだとしても、どうして駆け抜けて通れないということがあろうか)と喜んで進んでいくと、黄瀬川宿(沼津市黄瀬川)で2,000余騎の軍勢に遭遇する。旗印を見ると、足利方の小山判官の軍勢らしい。新田一族の山名・里見の人々を中心にこの軍勢に攻めかかり、100騎ばかりを討ち果たして、通り抜けていく。

 こうして愛鷹山の南側の麓にあった浮島原という湿地帯を過ぎていくと、松原の影にまた軍勢とその旗印が見える。土地の人々に敵か味方かを聞くと、足利方の甲斐源氏(武田・一条・小笠原)の軍勢であるという。これは良い相手に巡り合った、取り囲んで打ち取ろうと、2,000余騎の軍勢を2つに分けて、南北から押し寄せると、敵わないと見たのか、甲斐源氏の軍勢は一矢もいることなく、降参した。

 降参した甲斐源氏の軍勢を先頭にして進んでいくと、新田の中黒の旗を見て、これまで隠れていた新田勢の武士たちが、あちこちから駆けつけて、7,000余騎となった。これだけの軍勢が集まれば大丈夫だと喜んで、現在の富士市内である今井・見着(附)を通り過ぎるあたりで、また2,000余騎ばかりの軍勢を見かける。降参して先頭を進んでいた甲斐源氏の一団にこの敵は誰かと尋ねると、これは武田、小笠原の者どもであるという答えである(これまた甲斐源氏の一団である)。そうであれば、攻め滅ぼせと攻撃に取り掛かるのを、新田16騎の1人である高田薩摩守義遠が、この敵を全滅させようと攻めかかれば、味方にも相当な損害が出るでしょう。大敵は囲まずに(逃げ道を残して)攻める方が有利に戦うことができますと進言する。新田の家来である由良・船田が、なるほどその通りであると、東の方を開けて、三方から攻めかかると、敵のこの軍勢は少しばかり遠矢を射ただけで、東の方へと逃げていった。

 この後は、あえて新田軍の進路を遮ろうとする軍勢にも出会わなかったので、負傷者を助け、遅れてきた軍勢を待ちつれて、12月14日の暮れ方には天竜川の東の宿にたどり着いた。

 その折、川上に雨が降って、川の水が増水していた。長い行軍で馬が疲れているので、川の中を騎馬で渡るのは難しいと判断して、付近の民家を壊して、浮橋を作った。この時、もし足利方の大群が、あとから追いかけて新田軍と戦っていれば、京勢を全滅させることもできただろうに、足利方では吉良・上杉の人々が議論を続けていて、3・4日を無駄に使ってしまったために、川の浮橋を間もなく軍勢が渡ってしまった。『太平記』本文には「数万騎の軍勢、残るところなく一日が中(うち)に渡つてけり」(第2分冊、393ページ)とあるが、新田勢が数万騎であったとすると、これまでの記述と整合しない。なお、吉良は足利一族、上杉は足利氏の譜代の家臣で、尊氏・直義兄弟の母=上杉清子の実家である。

 兵士たちを皆渡し終えたのちに、大将である義貞とその執事(家老)の船田入道が渡ろうとすると、軍勢の中に裏切り者がいたらしく、浮橋を1間(1.8メートル)ばかり縄を切って空いた部分を作っていた。馬の口取りの下男がそれとは知らず、馬をひいて渡ろうとしていたのだが、馬とともに川の中に落ちて、浮かんだり沈んだりして流されていくのを船田入道が見て、誰か、あの馬を引き上げろと芸すれば、その後に続いてた栗生左衛門が鎧を着たまま川の中に飛び込み、2町(1町は約109メートル)ばかり泳いで馬に追い付き、馬と下男を左右の手で差し上げて、肩を超す水嵩の川の流れの中を静かに歩いて、対岸へとたどり着いた。

 この馬が落ちた時に、橋がさらに2間ばかり落ちて(ということは3間≒5.4メートルほど、浮橋が開いてしまっているということである)、わたることができそうもなくなっていたのだが、船田入道と義貞とは2人で、手を取り組んでゆらりと跳び渡ってしまった。(5メートル以上の間隔を跳び越えるということは、走り幅跳びの記録を参考にして考えると、かなり難しいことではないかと思う。まして、2人は鎧兜に身を固めているのである。) その後についていた20人ほどの武士たちは、跳ぶこともできそうにないので躊躇していたのを、伊賀の国の住人の名張八郎という、大力の武士が、渡してやろうと、鎧を着た武士たちの鎧の背中についている総角結びの飾りひもをとって持ち上げて、20人ほどを投げて渡した。さらに2人残っていたのを左右の脇に軽々と挟んで、1丈あたり落ちていた橋をゆらりと飛んで、向かいの橋げたを踏んだのだが、踏むところが少しも動かず、実に軽やかに見えた。(その前に3間といっておいて、すぐに1丈という。どちらが正しいのか、判断に迷う。1丈であれば、普通の成人男性が飛び越えられる間隔である。) これを見ていた人々は、ものすごいものだなぁ、凡人にできることではない、大将といい、部下といい、どちらが劣っているとは思えないが、(これだけの力がある人々の軍勢が)武運拙く、この戦に負けてしまったのは嘆かわしいことであると口々に述べたのであった。

 その後、浮橋を切って流してしまったので、敵が押し寄せてきても、簡単に天竜川を渡れるはずがなかったのに、浮足立った軍勢の常として、大将と心を合わせさらにまた一合戦しようと思う者がいなかったのであろうか、矢矧に1日宿営しているうちに、昨日まで2万余騎あった兵が、あちこちに逃げ散ってしまって、3分の1もいなかった。(もともと7,000余騎であったのが、数万余騎になったらしいのだが、その過程が描かれていない。途中から降参して軍勢に加わった甲斐源氏の一群などはこの機会に逃げていったということは十分に考えられる。あるいは、2万余騎になったというのにも、誇張があるのかもしれない。なお、『梅松論』には、兵が橋を切り落とそうとしたのを義貞はやめさせ、渡し守に橋を警護させて去ったので、尊氏の兵はその振る舞いに感激したとあるそうである。) 

 早朝、京方についていた宇都宮一族の惣領である宇都宮治部大輔が義貞の前にやってきて、味方の軍勢が手薄になってきているようなので、このままここにとどまっていると、敵襲を受けた際に危ない。もう少し都の方に後退して、葦数(あじか=岐阜県羽嶋市足近町)、墨俣(大垣市墨俣町)を前に臨むような、京都に近いところに陣を張るほうがよろしかろうと思いますと述べた。ほかの大将たちも、都のことが心配に思われるので、都から遠いところに長くいるのもどうかと思うと同意した。義貞は、そういうことであれば、ともかく皆さんのご意見に従おうとその日のうちに尾張の国まで退却した。

 退却しながらも、義貞軍はその武勇の片鱗を示す。そのあたりに『太平記』の作者の義貞への同情心が感じられる。その一方で、現実的な打算だけで義貞軍と尊氏軍の間を行ったり来たりしている武士たちがいることも読み取れる。一般の武士たちは後醍醐天皇の朝廷から、義貞ほどの厚遇を受けていないので、朝廷でも「幕府」でも自分を優遇してくれる方の味方をしようと思っているわけである。
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