佐藤信也『周――理想化された古代の王朝』(5)

10月28日(金)曇りのち雨

 第1章「創業の時代」と、第2章「周王朝の最盛期」では、殷にとってかわった周王朝が祀(祭祀)と戎(軍事)という2つの働き(という言葉を著者は使っていないが)を通じて支配を行い、その最盛期を現出した西周の前半の時代、第3章「変わる礼制と政治体制」と第4章「暴君と権臣たち」では礼制と政治の在り方の改革にもかかわらず、西周が衰退した後半の時代の動きをたどっている。西周最後の王である幽王が敗死、次の平王は都をより東方の洛邑に移す。これ以後を東周という。第5章「周室既に卑し」では周が東遷したのちの、「春秋」期における諸侯たちの動き、特にその中の軍事的な指導者である覇者がどのように礼制を扱ったかを中心に時代の変化を描いている。第5章の最後で、周王朝が「祀」の維持のための努力をつづけた一方で、春秋後半期以後に新しい潮流が起きて、王朝は次第に「祀」の中心から外されていくと、第6章以下の内容が予示されている。

 第6章「継承と変容」では春秋後半期における新しい動きを具体的に追っている。東周王朝は、覇者たちが西周的な枠組みを尊重する意識をもっていたことを利用して、西周以来の伝統を強調することで、王朝としての「祀」の存続を図ったが、春秋後期になるとそのような枠組みや意識を乗り越えようとする動きが起こってきたという。西周の時代において、天命を受けて四方を領有し、平和を実現する「天子」は周王だけであったのが、この時代になると秦や呉のような辺境の諸侯たちが「天子」と自称するようになる。紀元前600年ごろになると、貴族の階層によって墓葬に用いられる礼器の種類が使い分けられるようになった。諸侯や上級の貴族は、西周後半期の形式を模した復古調の礼器を用いるようになったという。

 このような儀礼の再編は、孔子を開祖とする儒家の誕生と、その思想が社会に受け入れられる背景となったと考えられる。孔子は西周、特に自分が生まれ育った魯の始祖である周公旦を理想視していた。孔子の活動した時期は、呉・越対立の時期と重なる。その後儒家たちは、自分たちが西周の礼制と信じるものを体系化し、『周礼』『儀礼』や『礼記』に収録されている諸編といった礼に関する書をまとめ、礼制を成文化した。身分ごとに守る礼制を区別する儒家の考え方は諸侯や上級貴族にとって受け入れやすいものであった――というよりも、儒家の方が彼らの要請に応えようとしたといえるのかもしれない。しかし、彼らの主張にもかかわらず、彼らが「西周の礼制を忠実に再現し、取り入れることができたわけではない」(186ページ)。時代の隔たりは大きく、社会も変化していたのである。例えば、『礼記』の諸編では天子・諸侯・卿・大夫・士・庶人と身分を区別しているが、西周末以前には卿とか大夫とかいう呼称自体が存在しなかったという。「要するに儒家の提示した礼制とは、当時の東周の礼制に、彼らが西周のものと信じる要素…を加えて復古的なものに仕立て上げ、体系化したものだったのである。」(187ページ)

 儒家はまた、礼制に道徳的な要素を付け加えた。例えば、もともと祖先の霊をもてなすという意味であった「孝」が父母や直系の祖先への奉仕という意味を持つものとされ、儒家の思想の中で仁や忠などとともに重要な徳目の1つとして位置づけられるようになる。「三年の喪」も、その人の孝の精神を示すための儀礼的な手段として、儒家によって創造されたのではないかと考えられる。

 春秋期には、礼制の再編と並行して西周の歴史や文化に関する事柄のテキスト化が進められた。春秋時代の諸侯の動きを記した『左伝』や『国語』には、この時代の人々が発言の中で西周時代の政治文書や詩を引用する場面が出てくる。そのような引用の中で、もともとのテキストが読み替えられたり、自分に都合よく解釈されたりすることが少なくなかった(孔子はそういう行為に批判的ではなかった)。そして次第に儒家の手によって六経がまとめられていく(『楽経』が失われて五経となる)。こうした文書は広く普及した。しかし、礼制の再編や文献の普及は諸侯や貴族、儒家の人々によって進められたのであり、周王朝は何ら主導権を発揮しなかった。

 終章「祀と戎の行方――戦国時代以後」は、戎が中国を統一した秦、漢によって継承されたのに対し、「祀」の方はそれほど単純には継承されなかったと説く。ここでは戦国時代に入ってからの周王室の衰退と、その権威の喪失(秦の孝公に覇者としての「文武の胙」を贈ったが無視された)、領土の分裂と滅亡について記し、漢の武帝の時代以後、儒学の尊重の機運の高まりから、周の後裔が再び脚光を浴びるようになったという。前漢を滅ぼして、新王朝をを建てた王莽は周公の「祀」を復興しようとしたが、彼が造営させた辟雍は建築物であったが、西周時代の辟雍は祭祀儀礼の場であるとともに、周王の苑囿であったというような誤りがあった。「周王朝の「祀」は、儒教の国教化によって後代の王朝に継承されたが、もとの形のまま継承されたわけではない。「古典中国」の中に埋没してしまった周王朝の「祭祀」を浮かび上がらせるには、その違いを意識するところから始めなければならない」(216ページ)とこの書物は結ばれている。

 新しい考古学的な発見や、文献研究に基づく知見を活用しながら、周王朝の歴史を再現しようとした著者の努力は半ば成功したといってよかろう。特にこの書物で強調されているのは、西周時代の政治を支える重要な手段の一つであった「祀」あるいは礼制が、その後の儒家によって新しい解釈を施され、政治や社会生活の規範として我々の生活にまで影響を及ぼしている一方で、その本来の姿が知られないままであるということである。著者によって再現された「祀」の様相が「劇場型政治」などと呼ばれる今日の政治との共通性を感じさせるのは、興味深いことであり、儒教思想というフィルターを外して国家というものを考えていくうえでも、この書物は重要な手掛かりを与えてくれるのではないかと思う。 
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