作家の出会い――芥川龍之介と中野重治

10月24日(月)晴れたり曇ったり

 最近、中野重治の『むらぎも』(1954)を読み返している。高校時代に、友人が持っていたのを借りて読んだことがあるだけで、その時は、登場人物の誰が実在の誰をモデルにしているというような興味しか持てなかった。中野については、小説よりも詩の方をよく読んでいて、大学時代に属していた詩のサークルの仲間から、お前の作品には中野の影響が強く感じられるといわれたことがある。そのころになって、「歌のわかれ」(1939)を読んで、こちらの方はよくわかったという記憶がある。「歌のわかれ」は中野自身をモデルにする片口安吉という人物の旧制高校卒業、大学に入学してしばらくたつまでを描いた作品なので、大学生としての自分の経験が少しは理解に役立ったのであろうと思う。『むらぎも』は安吉が、大学の中で社会運動や文学活動に参加しながら、大学を卒業するまでを描く教養小説である。安吉の成長の一方で、年号が大正から昭和へと変わる。時代の違いということもあるし、大学卒業前の安吉の活動範囲と経験は、同じ年代であった私の活動範囲と経験とをはるかに上回っており、その時点で読んでもやはりなかなか理解できなかっただろうと思う。

 この小説の中で、強い印象を残す場面の一つが、安吉が作家の葛飾伸太郎(≒芥川龍之介)を訪問する箇所である。今回、読み直してみて、この場面が作品のかなり後の方に置かれていることを知って自分の記憶の不確かさを感じさせられた。この場面が、小説の最後の方に置かれているのは、安吉の文学に対する取り組みが、(一見文学とは関係のない労働争議への支援活動を通じて)本格的なものになってきたことを示す意図もあってのことだと思われる。(講談社文芸文庫版の「作家案内」によると、中野が芥川の招きに応じて彼を訪問したのは1927年6月のことであったのが、安吉が葛飾伸太郎を訪問したのは1927年1月のこととされているそうである。)

 安吉は師匠株の詩人である齋藤(≒室生犀星)のもとに集まっていた文学青年仲間の深江(≒堀辰雄)や鶴来らと『土くれ』(実際には『驢馬』)という同人雑誌を出しており、葛飾はこの雑誌に寄稿している青年たちの動きに注目を寄せている。どこからか、安吉が文学をやめようとしているといううわさを聞いていた葛飾は、彼の家を訪問した安吉に、その噂の真偽を確かめ、安吉が否定したので、安心したという。その後の葛飾の言葉を、中野は安吉の受け止めた内容に書き直している。

 「われわれはもはや古い。思想の上でも感覚の上でも。君らは両方で新しい。それだけに、古いと自分でわかっているものとしてやはりそれを言っておきたいのだ。人は、持って生まれてきたものを大事にしなければならぬだろう。文章で見たのとも人伝てに聞いていたのとも違って、葛飾の語り口が才気煥発というふうでないことが安吉に重くかぶさってきた。葛飾は、「人は持って生まれてきたものを大事にしなければならぬだろう。」ということを、自分に言い聞かせるような調子でいっていた。ありもしない責任のようなものが背中にくくりつけられてくる。そんな責任はない。ないけれども、まったくないのでなくて少しはあるかも知れぬだけにいっそう重苦しくかかってくる・・・・・」(350ページ)

 葛飾は、『土くれ』の同人の中で「才能として認められるのは、深江君と君とだけでしょう?」(352ページ)ともいう。暗に、齋藤だけでなく、葛飾のところにももっと顔を出すようにと促しているようにも受け取れる。(実際には、芥川が翌月に没したために、2度目の会見は実現しなかった。)

 この原稿を書こうと思っていろいろ調べてみて気づいたのだが、芥川龍之介は1892(明治25)年生まれ、中野は1902(明治35)年生まれであるから、10歳しか年が違わないのである。もちろん、10歳という年齢差は大きいのだが、芥川が1927(昭和2)年に没したのに対し、中野は1979(昭和54)年まで生きていたので、この両者にはもっと大きな隔たりがあると思っていた。漱石が芥川の「鼻」を激賞した話は有名だが、両者の年齢差は25歳であり、師弟として十分な隔たりである。それに比べると、芥川と中野の年齢差は芥川の名声にもかかわらず、中野に敬意を抱かせるのには十分でなかったかもしれまい。さらに2人が会見したときには、(『むらぎも』における安吉の観察を信じる限り)芥川は衰弱した姿であったらしい。芥川の声が中野にしっかりと届いたとはいいがたいのは、この衰弱のためもあるかもしれない。

 ところで、芥川は漱石門下であったが、鴎外ともかなり親密な関係にあった。高橋英夫さんの『作家の友情』には、漱石の葬儀の際に鴎外がやってきたのだが、その時に受付をしていたのが芥川であったというエピソードが記されている。さらに鴎外の「細木香以」には、芥川がこの江戸時代の大通人の一族の末裔であることが記されていて、彼が芥川に寄せる親近感がなみなみならないものであったことが感じられる。さらにいうと、鴎外と芥川は多彩な作品を発表しているという点での共通点がある(それだけ多様な取材源をもっていたということでもある)。ただ鴎外が陸軍の軍医を本務としながらも、各種の原稿を書くだけでなく、学校の講師をしたりしたのに比べると、芥川は初期には学校の先生をしていたが、やめて作家活動に専念している。鴎外の方が我慢強いというか、たくましいというか、官僚的な体質があるのに対し、芥川は自由人的である。

 英国の哲学者・思想史家であったI・バーリンは『ハリネズミとキツネ』という本の中で、ロシアの文学者たちを、いろいろなテーマで作品を書いたプーシキンのような「キツネ」型と、一つのテーマにこだわり続けたドストエフスキーのような「ハリネズミ」型とに分類している。この分類は興味深いが、文学者のタイプがこの2つにまとめられるかというのは疑問である。実際、バーリンはトルストイについて「自分をハリネズミだと思い込んだキツネ」という注目すべき定義を下している。

 この定義を日本の文学者にさらに乱暴にあてはまると、鴎外は典型的なキツネ型、漱石はキツネ型から出発してハリネズミ型になっていった作家といえるだろう。芥川はキツネ型であり、中野はハリネズミ型である。だが、タイプが同じだからといって、親近感を持つとは言えないし、違うからといって接触しないのは偏狭な態度というべきである。芥川と中野の会見が、芥川の死の直前の出来事であったのは、どうも残念で、もう少し早い時期に接触していれば、その後の両者の運命ももう少し違っていたかもしれない。
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