横道世之介

4月23日(火)晴れ

 4月19日にキネカ大森で『横道世之介』を見た。批評がなかなか書けないままに時間がたってしまい、映画を上映している映画館も少なくなってきた。不完全でもいいから、少し書きたいことを書いてみようと思って書き進める次第である。

 1980年代に東京の大学に入学したために長崎から上京した横道世之介という学生が周囲の人間と接触しながら積み重ねる約1年間の経験を描く。大学での友人たち、同郷の先輩や仲間、それに彼があこがれる年上の女性千春、彼に思いを寄せる富豪の令嬢祥子、そして長崎にいる高校時代の恋人であるさくら・・・。とともに、この映画はそれから16年たった(21世紀の初めの)彼らの姿と彼らの想い出の中の世之介をも描く。

 吉田修一が毎日新聞に連載した小説の映画化。映画化にあたって吉田さんはコメディーにしてほしいと要求したそうで、世之介と付き合っているときの祥子の型破りな行動などに喜劇的な要素が盛り込まれている。スタンダールは『パルムの僧院』の主人公の生涯を幸福なものであるとして描いたというが、幸福にもいろいろある。コメディーにもいろいろあるということであろうか。

 大学に入学して東京に出てくる学生の生活を描くという試みは、漱石の『三四郎』以来少なからず取り組まれてきた。『三四郎』は1908(明治41)年9月から12月まで朝日新聞に連載されたが、それに先立って8月19日付の同紙にこんな予告文を書いているそうである。

 田舎の高等学校を卒業して東京の大学に這入った三四郎が新しい空気に触れる。さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して色々に動いて来る。手間は此空気のうちに是等の人間を離す丈である。あとは人間が勝手に泳いで、自ら波瀾ができるだらうと思ふ、さうかうしてゐるうちに読者も作者も此空気にかぶれて是等の人間を知る様になることとしんずる、・・・たゞ尋常である。(高橋英夫『偉大なる暗闇』25-6ページより重引)

 この引用をした高橋さんの著書には、小川三四郎、佐々木与次郎という平凡な名前に既に類型化が施されていることも指摘されている。『横道世之介』の場合、この風変わりな名前が類型化を促しているようである。そしてこれは三四郎の時代と世之介の時代とでは大学生の社会的な評価が違ってきていることの表れと解するべきである。新入生が巻き込まれる空気が描き出されるという点で『横道世之介』は『三四郎』の系譜に連なっているが、高等教育の大衆化の波をまともにかぶった作品でもある。『三四郎』から石原慎太郎の『青年の樹』に至る多くの大学新入生小説(その少なからぬ部分が映画化されてきた)の舞台が東京大学であるのに対し、この作品では同じ東京六大学ではあっても私立の法政大学であり、授業の場面がついに1場面も出てこないことが時代の変化を物語っている。

 映画は現代ではなく、1980年代の学生生活を描いている。そういえば、4月21日の毎日新聞の日曜くらぶの「雑誌のハシゴ」というコラムに荻原魚雷さんが「80年代は、今以上に首都圏と地方の文化格差が」あったと書いている。格差というよりも距離といった方がこの映画を考える上では重要かもしれない。

 世之介は長崎から東京に出てきた。大学から離れた、おそらくは新宿駅から西武(でなくてもよいが)鉄道の電車に乗っていくつも駅を過ぎたところにあるアパートに住んでいる。アルバイト先も都心部であるらしい。映画の後の方ではめったにアパートに帰らなくなっている。彼があこがれる千春は、いかにも都会の女風にしているが、もともとは東北の出身で、母親とは方言で話す。環境や生育歴が違う祥子との距離も微妙であり、学年の終わりに彼女は短期の留学でパリに旅立っていく。

 地理的な距離だけでなく、登場人物の16年後の回想を描くことで映画は時間的な距離も示している。さらに重要なのは心理的な距離であろう。1人1人の人間の間に距離があるのは当然で、どのくらいの距離を保つのかが問題である。世之介はそのことに人一倍苦労しているが、それがうまくいっているとは言い難い。

 冬休みにスキーに出かけた祥子がけがで入院する。退院した彼女を世之介が迎える。彼は退院を2人で祝おうと強引に誘う。

 16年後、世界を飛び回って活躍している祥子が車の中からふと眺めた窓の外に、そのときの急ぎ足の世之介と松葉杖の祥子の姿が見える。見ている祥子の顔がなぜか若返る。映画の中の一番印象に残る場面である。

 パリに旅立つ祥子に世之介は自分が最初に撮った写真は彼女に見せると約束する。そしてその約束はずいぶん時間がたってから果たされることになる。世之介の想い出は周囲の人間1人1人で違う。それは当然のことである。しかし、おそらくは彼と出会ったことで一番自分を変えることになったのは祥子である。世之介を追いかけて出かけた長崎の海岸で遭遇してしまったインドシナ難民の姿を世之介と祥子が別の目で見ているのが象徴的である。

 大学新入生を描く小説はいわゆる教養小説の体裁をとることが多いのだが、ここでむしろ教養形成を遂げているのは主人公であるというよりもヒロインの方だというのが注目すべき点ではないかと思っている。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR