奇蹟がくれた数式

10月22日(日)曇り

 渋谷BUNKAMURAル・シネマ1で『奇蹟がくれた数式』(The Man Who Knew Infinity、マシュー・ブラウン監督)を見る。インドの天才数学者シュリニマーサ・ラマヌジャン(1887-1920)の生涯を、彼の才能を見出した英国の数学者ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ(1877-1947)との交流を軸に描き出した伝記映画である。ハーディの共同研究者として多くの業績を挙げたジョン・エデンサー・リトルウッド(1885-1977)や、彼らと同じ時期にケンブリッジ大学の同僚であったバートランド・ラッセル(1872-1970)らの実在の人物も登場する。ロバート・カニーゲル『夭折の数学者・ラマヌジャン 無限の天才』(工作舎から翻訳が出ているそうである)が原作になっているそうだが、必ずしも歴史的な事実そのままが映画化されているわけではなく、数学をよく知らない観客にわかりやすくされている部分もあるようである。

 学歴がないためになかなか就職口を見つけることのできない青年ラマヌジャン(デヴ・パテル)は彼の数学的な才能に関心を抱く人物に出会ったおかげで、マドラスの港湾事務所の事務員の仕事を見つけ、母と新婚の妻と一緒に暮らすことができる。事務所の所長であるサー・フランシス・スプリング(スティーヴン・フライ)の勧めで、彼は自分の研究について記した手紙をケンブリッジ大学のハーディ教授(ジェレミー・アイアンズ)に送る。その内容に驚いたハーディは彼をケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに招くことにする。

 敬虔なヒンズー教徒であるラマヌジャンの母は英国行きに反対するが、妻の励ましもあって彼は英国に向かう。ケンブリッジでリトルウッド(トビー・ジョーンズ)とハーディに迎えられた彼は、これまでの研究をまとめたノートを見せて、2人を驚嘆させる。しかし、彼が正規の数学教育を受けていないことから、彼の展開する数式には厳密な証明が欠けており、その点を補うように指導を受け、直観でものを考えるラマヌジャンはその考えがなかなか受け入れられず、対立する場面もある。同僚のラッセル(ジェレミー・ノーサム)は自由に研究させた方がいいというが、ハーディはあくまで厳密な証明を求め続ける。トリニティ・カレッジにはインド人の学生も何人かいたが、全体としてはインド人であるということだけで、彼の能力を疑う雰囲気が強く、彼を苦しめる。妻との音信が途絶えていること(母親が妻の手紙を発送せずにいたためである)、菜食主義者であるために、英国の習慣になじめないことも彼にとってはつらい環境である。

 折悪しく、第一次世界大戦がはじまり、リトルウッドはその数学の能力を大砲の弾道の計算に生かすことを期待されて英陸軍に召集される。ラッセルは戦争に反対する言動がおそらくは理由となって、大学を追われる。ハーディもラッセルの後を受けて、戦争に反対したために、大学での立場は悪くなる(もともとよくないのである)。カレッジもツェッペリンの爆撃を受ける一方で、その中庭には傷病兵を収容する病院が設けられる。戦局が悪化する中で、インド人学生に対する世間の目は冷たく、菜食主義者が口にできる野菜の入手も難しくなる。栄養不良でラマヌジャンは結核を患い、次第にそれが悪化していく。それでも彼の研究が次第に形を整えてきたことを認めたハーディはラマヌジャンをカレッジのフェロー(研究員)にしようとするが、この提案は否決される・・・。

 数学についてはわからない部分が多いのだが、この映画は大学の中の出来事だけでなく、社会の動きもしっかり描きこんでいて、ケンブリッジの大学人が戦争の中で、それに巻き込まれていく姿と、にもかかわらず自分たちの学問を守り、続けていこうとする姿と両方の側面を描いているところが共感できる。ただ、ケンブリッジの学問の自由や独立性が、大学がその歴史を通じて築いてきた特権と結びついていることも見落としてはならないだろう。

 その一方で、この映画はインドの独立運動とか、その前提となる社会の事情などについては詳しくは描いていないのだが、ラマヌジャンの生涯を見ていくと、ショタジット・ライの『オプー三部作』の3作目『大樹のうた』の主人公のオプー(ベンガル出身である)と重なる部分が見られるのが興味深い。実在の人物と架空の人物(ただし、作者自身がモデルになっている)を対比させるのは多少の無理があるにしても、ラマヌジャンは南インド出身でタミル語を母語とするが、ブラーフマナ出身であること、母親との関係の濃密さ、大学を中退せざるを得なかったことなど、共通する点ではないかと思う。ただしオプーの場合は大学在学中に母親を亡くすのに対し、ラマヌジャンの場合は母親がずっと生きていて、嫁姑という別の関係がまとわりつくことになる。
 特に両者を隔てているのは、ラマヌジャンは文学ではなく、数学という、インドではその才能を認められにくい領域に才能があったために、英国に渡るという大冒険をすることになったという点である。(ただ、この時期の英国の数学研究の水準は必ずしも高くなく、ほかならぬハワードとリトルウッドが高めたという事情がある。) ラマヌジャンはその数学的なインスピレーションを自分の信仰するヒンズー教の女神から得ているといって、無神論者であるハーディと対立するのだが、次第にハーディはラマヌジャンを理解するようになる(インスピレーションというのはどこか神がかった部分があるものである)。天才というのは生まれつきのものだが、それを認めることができるようになるのは、後天的な努力によるのではないかと思う。

 数学が分からないから、数学の歴史ももうひとつわからないところがあるが、ラマヌジャンの生涯には時代に先んじた不幸が強く感じられる。現在の英国であれば、インド亜大陸の出身者は数知れないし、ケンブリッジ大学のカレッジの食堂でインド料理が供されるのは珍しいことではなくなっている(というか、一度、ケンブリッジのカレッジの食堂でインド料理を食べたことがある。ただ、ナイフとフォークでインド料理を食べなければならないのは一苦労であった)。だから、生活環境の違いによる苦労もだいぶ少なくなっているはずである。また、もし、ラマヌジャンが長生きして、ケンブリッジに戻ったならば、ウィットゲンシュタインやチューリングと交流を持つ場面があったかもしれない、そのような交流によってどのような新しい数学が生まれていただろうか…などと考えると彼の若死にを惜しむ気持ちがさらに増す。 
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インドの天才数学者シュリニマーサ・ラマヌジャン(1887-1920)の生涯

記事拝見しました。
 インドの天才数学者シュリニマーサ・ラマヌジャン(1887-1920)の生涯、初めて知りました。また、歴史が背景にあり、興味深い記事でした。
 私たちが学生の頃は、数学では「ガロアの生涯」とかの書物がありましたが、こういう情報は、素人には得難く、インド数学の情報として貴重ですね。 
 また、33歳の生涯、とは「ガロア」と同じく短いですね。
 ところで、この天才の有名な発見は何でしょう。
 やはり俗人には分からない未知の領域なのでしょうか。
 草々

良い映画でした。

こんにちは。
この映画,私も観ました。
静かに語られるラヌマジャンの生涯は、時代背景もしっかり描かれており、見応えがありました。
短い人生でも、これだけ一つの事に集中して過ごせる人生は,素晴らしいですね。

Re: インドの天才数学者シュリニマーサ・ラマヌジャン(1887-1920)の生涯

 コメントをありがとうございました。
 映画館で入手したチラシによると、シュリニマーサ・ラマヌジャンは数学解析、数論、無限級数および連分数の領域で大きな光線を残したとのことですが、映画の中では無限級数にかかわる内容が強調されていたように思います。しかし、どういうことが問題なのかは、私もよくわからないので、私の記事ではほとんど省略しました。
 ただ、彼の天才を示すものとしてよくわかったのは、乗ろうとしたタクシーの番号が1729で凡庸な数だとハーディーが言うと、ラマヌジャンが2つの立法数の和で表せる最小の数だと即座にいう場面で、実話を少し場面を変えて映画の中のエピソードにしているようです。
 1729=12³+1³ =10³ + 9³
 A = B³ + C³ =D³ + E³
となるAの中で、1729が最小であるということだそうです。映画の中でリトルウッドがラマヌジャンはあらゆる整数に精通していると讃嘆する場面がありますが、その通りだったようです。彼の研究成果はブラックホールの研究に役立てられているとのことで、そのあたりになるとこちらの理解をさらに超えてしまいます。彼の天才ぶりの一端を多少とも理解いただけたなら幸いです。
 

Re: 良い映画でした。

コメントをありがとうございました。

数学というあまり親しめない領域が話題になっているので、今一つ客足は伸びていないようですが、見た人たちの間での満足度は第1位だという記事も読みました。
> 静かに語られるラヌマジャンの生涯は、時代背景もしっかり描かれており、見応えがありました。
> 短い人生でも、これだけ一つの事に集中して過ごせる人生は,素晴らしいですね。
というのは同意見です。影武者のような役割ながら、実はしっかり学問と実世界の橋渡しをやっているリトルウッドの存在も印象に残りました。
これからもよろしくお願いします。
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