『太平記』(129)

10月21日(金)晴れのち曇り

 建武2年(1335年)、足利尊氏討伐を決意した後醍醐天皇の追討の宣旨を賜り、11月19日に新田義貞が大軍を率いて、尊氏の本拠である鎌倉へと向かった。大手の軍勢は東海道、搦め手は東山道を進んだ。鎌倉では直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は側近の武将たちの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦で敗れ、鷺坂、手越でも敗退した。鎌倉に帰った直義は、尊氏に偽の綸旨を見せて出家を思いとどまらせた。12月11日、尊氏と直義は出陣し、翌日、箱根、竹之下一帯で義貞と激しい戦闘となった。箱根では義貞軍が優勢だったが、竹之下の戦闘で大友、塩冶が尊氏方に寝返り、義貞軍は総崩れとなった。

 大手である箱根路の合戦は、義貞軍が戦うたびに優勢を続けていたので、防戦一方になっている足利直義とその軍勢を追い落として、鎌倉に入るという目標は間もなく達成できるであろうと、寄せてはみな勇気凛々、夜の明けるのを今や遅しと待っていたのであるが、搦め手である竹下での戦いで義貞軍が破れて、軍勢はみな追い散らされたといううわさが広がってきた。そこで義貞軍の中でも諸国から刈り集めた軍勢や、道中の戦で新田方に降参した関東勢は、陣営を離脱し、旗をまいて、我先に落ち延びていった。広い箱根山に、新田勢が隙間なくあふれて陣を構えていたはずだったのが、人がいるとは思えないようなありさまになった。

 新田義貞の執事(家老)である船田義正は、箱根路の戦闘の第一の前線で敵と対峙していたが、直義が他の陣に「竹下の合戦は、将軍(=尊氏)が勝利して、敵をみな追い散らした」と、早馬で駆け付けた伝令が伝えている声を聴いて、本当のことであろうかと不安に思ったので、ただ一騎、味方の陣を回って様子を見ると、幕ばかり残って、人がいる陣はなかった。さては竹下の合戦で味方が負けたというのは本当のことだったか、こうしてはいられないと、急いで大将の陣に向かい、詳しい事情を報告した。義貞はしばらく思案していたが、「何にしても陣を少し引き退いて、落ち延びていく味方の軍勢を集めて体勢を立て直してから、合戦をしよう」と、船田を引き連れて、箱根山を下りて西の方に向かう。そのせい、わずかに100騎を越えるものではなかった。

 しばらく馬を控えて、後ろを見ると、あの16騎の党を組んだ弓の精兵たちが続いてきた。「北にある山に沿って、三葉柏の旗の見えるのは、敵か味方か」と義貞が問うと、熱田大宮司昌能が100騎ばかりの兵を連れて、義貞を待っているのであるという答えが返ってきた。この軍勢と合流して、箱根から三島へと下る嵩(たけ)七里の山道を進んでいくと、菊池武重の率いる300余騎が合流してきた。

 そこへ、宮方の伝令・間諜を務めている散所法師が西の方から1人でやってきて、船田の馬の前に出てかしこまって次のように述べた。「これはどちらの方にお通りになろうというのでしょうか。昨日の暮れに、脇屋殿が竹下の合戦に負けて、落ちていかれた後、足利尊氏の率いる80万騎が伊豆の府(こう=三島)に集結していて、木下、岩の陰、人のいないところはいないという有様です。いま、このような小勢で通られようとするならば、決して成功なさることはないと思われます」。これを聞いて、新田方の中でも勇者として知られる栗生と篠塚が、それぞれ並んで馬を進めていたが、鐙を踏ん張って体を伸び上がらせ、味方の軍勢を見て、「さあ、皆の衆。一騎当千の武者とは我々のことを言うはずだ。80万騎に味方は500余騎。これでちょうどいい相手である。さあ敵の軍をかけ破って、道を切り開こう。続けや人々」と勇気を奮い立たせ、数万騎が集まっている敵の中に駆けてはいる。

 府中にいた甲斐の武士で尊氏方の一条次郎という大将が、3,000余騎を率いて参戦していたが、義貞を見て、恰好な敵だと思ったのであろうか、馬を近寄せて組み付こうとしたのを、篠塚が割って入って遮り、一条が打ち込んできた太刀を左手の袖で受け止め、巨漢の武士を弓の長さ2張分ほど投げ飛ばした。一条も大力に加えて身のこなしが機敏な武士なので、投げられても倒れることなく地面に立ち、よろめく足を踏みなおして、なお義貞に走りかかろうとするのを、篠塚は馬から飛び降りて、両膝をけり倒した。倒れると同時に、そのまま一条の首をとった。

 一条の郎党たちは目の前で主人が討たれたので、何とか復讐を果たすために篠塚を討とうと、馬から飛び降り飛び降り、篠塚にとびかかろうとするが、それを篠塚は蹴倒し、蹴倒しては首をとり、休むことなく、その場で9人まで首をとり続けた。この剛勇ぶりを見ては大勢を誇る足利方もあえて新田勢に手を出すことを控えるようになり、義貞は伊豆の府をそのまま静かに通ることができた。すると、宵のうちに戦いに敗れて逃げてそのあたりに隠れていた義貞方の兵たちが、あちこちからかけ加わり、その数は2,000余騎ばかりとなった。

 「散所法師」あるいは、散所をめぐっては林屋辰三郎らの研究があるので、興味のある方は参照していただきたい。『私本太平記』の執筆の際に吉川英治が、林屋から多くの示唆を得ているらしいことは、すでに述べた。搦め手の軍が敗走したことから、大手の義貞軍はそれまでの優勢な戦いから一転して退却を余儀なくされるが、篠塚の剛勇で足利方に対し、一矢を報いる。ただし、このあたりの記述は、尊氏の軍が伊豆の府に到着する前に義貞は逃げていたとする『梅松論』の記述とは大きく異なる。「昔より東士西にむかふ事寿永3年には範頼義経。承久には泰時時房。今年建武2年には御所高氏直義。第三ヶ度なり。御入洛何のうたがひかあらむとぞ勇悦あいける」(『梅松論』上、『群書類従』第21輯、171ページ)と、こちらはまことに元気がいい。しかしながら、尊氏はなかなか都を確保できず、戦いはさらに続く、「太平」が待ち望まれる状態が続くことになる。この戦いで少なからぬ武士たちが、勝てば官軍と様子を見ては、強い方に鞍替えをする。味方が大勢でも、相手が決死の覚悟で迫ってくれば、真剣には戦わず、そのままゆき過ごさせてしまう。武士たちもできることなら、戦いたくない、楽したいという気持ちが強いことが分かる箇所が続くことも注意してよいところである。
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