佐藤信也『周――理想化された古代王朝』(4)

10月19日(水)晴れのち曇り

 周は紀元前11世紀後半ごろに殷王朝を倒すことで成立し、およそ800年後の紀元前256年に滅んだ中国古代の王朝である。この州の時代は2つの時期に分けられる。紀元前771年までの前半部を「西周」といい、動乱によって西周最後の幽王が敗死して以降の後半部を、「東周」と呼ぶ。この書物は、周の歴史を、「西周」の方を重視しながら、伝世文献と出土文献その他の考古学的な史料を手掛かりに構成するものである。その際、周王朝の在り方を示すキーワードとして「祀」(祭祀)と「戎」(軍事)に注目する。特に「祀」から派生して発展した「礼制」は孔子に始まる儒教の思想の中で重視されただけでなく、仏教にも部分的に取り入れられている。しかし、儒教は「西周」時代の「礼制」を忠実に再現できたかをめぐっては疑問が残る。

 この書物の第1章「創業の時代」では周がその影響を受けてきた殷を滅ぼして、王朝を築いた過程が記され、第2章「周王朝の最盛期」では、初期の王たちが「祀」と「戎」を通じてどのように支配を行ったかが検討される。第5代の穆王の時代に南征が失敗し、その後の王たちは、「戎」での失敗を補うべく、「祀」の改革へと乗り出すことになった。第3章「変わる礼制と政治体制」では、従来、殷のやり方を踏襲していた会同型儀礼から、臣下に権限や物品を授与するより実利的な「冊命儀礼」への変化があり、政治体制においても特定の重臣による政治から、執政団の行う政治への変化がみられる。ところが第4章「暴君と権臣たち」によると、「西周」の後期の終わりになると、政治体制をもとの執政団政治に戻そうとする動きなど、不安定な要素が多くなり、王位継承をめぐる争いや、異民族との戦いも絡まって、「西周」は滅び、周室は東遷することになる。第5章「周室既に卑し」の最初の節「周室の東遷」では、周室の東遷をめぐる謎や、諸侯との関係の変化などが取り上げられた。 

 第5章では引き続き、「覇者、斉の桓公と晋の文公」で春秋時代の覇者について述べる。一般に「春秋五覇」と呼ばれるが、その5人が誰であるかについての定説はない。むしろ、「五覇」という言葉の方が先にあって、あとから対応する歴史的な人物があてはめられていったのではないかと思われる。しかし、その中で、斉の桓公と晋の文公については、必ず覇者と考えられているので、この2人を取り上げることにするという。
 斉の桓公が覇者と目されるようになったのは、紀元前679年のことである。この年、斉は東周の都である洛邑より東に位置する東方諸侯の指導者として認められるようになったのである。この斉に対抗したのが、南方にある楚である。楚は西周時代からその存在を示してきたが、おそらくは周室の東遷のころから、君主が王を自称することになる(周王室からの自立を示す行為である)。そして春秋時代になると北方に進出し、斉とその間に存在する諸国を攻撃、これらの国々を支援する斉と戦闘、講和のための話し合いを繰り返すようになる。このような話し合いの際に、自分たちの主張を補強する論拠として、西周の故事が使われたという。
 斉の桓公の威信は、紀元前651年に行われた葵丘の盟で絶頂に達する。この時、桓公は東周第6代の襄王から派遣された使者により、周の始祖である文王・武王の祭祀に供された祭肉、すなわち「文武の胙」を与えられている。これは四方の諸侯を統括し、周王朝を保護する役割を認められたことを意味する。しかし、桓公の死後に彼の息子たちによる後継者争いが起こり、斉の覇者としての地位は失われることになる。

 晋は周王室の一族を祖とするとされ、東遷期に晋の文侯が周の平王を支持し、携王を殺したことに見られるように、周の王室との強い結びつきをもっていた。紀元前636年に(19年の亡命生活を経ていたといわれる)文公が即位すると、周王室の内紛に際して、東周第6代の襄王の復帰を実現している。そして紀元前632年には城濮の戦いでその率いる連合軍に大勝し、その翌年に諸侯との会盟を行うとともに、周の襄王から侯伯すなわち覇者に任じられている。「文公は策命すなわち冊命によって侯伯に任じられているが、その儀礼の形式も西周期に行われた冊命儀礼に準じている」(164ページ)。そして、このことからも「春秋期は、まだまだ西周的な意識や枠組みが色濃く残っている時代だったのである」(同上)としている。
 この晋の覇権は、文公の時代の紀元前632年の践土の盟から定公の時代の紀元前506年の皐鼬の盟まで120年以上存続した。晋の君主が一貫して会盟を主催し、諸侯がそれに服するという、晋による「覇者体制」が成立したのである。斉の桓公の覇権が洛邑より東に偏っていたのに対し、晋の覇権は洛邑を中心とする中原全体に及んでいる。ただし、東方の斉、西方の秦、南方の楚はこの派遣の範囲外にある。しかし、同盟国の秦からの離反が進んで、その覇者体制は解体され、これに代わって南方の呉・越が台頭することになる(孔子が活躍した時期とも重なってくる)。

 東遷後の周王朝は、それまでと同様に王位をめぐる内紛を繰り返し、そのことが王朝の軍事力や指導力、すなわち「戎」の部分を弱めていき、諸侯の討伐などは行われなくなり、逆に諸侯の力が強くなる。襄王の孫の第9代の定王の時には、楚の荘王に「鼎の軽重」を問われるという出来事が起きたほどである。一方、斉の桓公に「文武の胙」を贈り、晋の文公に対しては西周以来の冊命儀礼の形式に則って侯伯への任命を行うというように覇者をはじめとする諸侯に対して西周以来の伝統と権威を強調するという方針をとった。このような形で「祀」の部分の維持を図ったのだが、春秋時代の後期になると、新しく起きてきた潮流によって周王朝は、次第に周の「祀」の中心から外れていくことになる(新しい潮流とは、孔子によってはじめられた儒家の「周礼」復興の動きである)。

 覇者というと、武力によって敵を圧倒してその威信を樹立するという印象を持ってきたが、ここでは周室による儀礼によって一定の権威を与えられていたことが分かって、興味深かった。現在の世俗化された国家においても、何かの儀式を行わないと権力者の権威が示せないということと共通するところがあるように思う。この書物は周の歴史について、その前半の「西周」時代の様子を詳しく論じることを主眼として描かれたものなのだが、私の書評はむしろ、後半の春秋時代以後の方が詳しくなりそうな様子である。しかし、「祀」と「戎」をキーワードについて王朝の運命と、後世への影響を検討するという著者の姿勢を無視するつもりはない。
 
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