『太平記』(128)

10月14日(金)曇り、次第に空が明るくなってきた。

 建武2年(1335年)11月19日、足利尊氏討伐を決心された後醍醐天皇の朝敵追討の宣旨を賜り、新田義貞が大手の大将として6万7千余騎の兵を率いて東海道を下り、搦め手として1万の兵が東山道を下って信濃から鎌倉に向かおうとした。鎌倉では、直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は上杉憲房らの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦に敗れ、鷺坂、手越でも敗退した。鎌倉に帰った直義は、尊氏に偽の綸旨を見せて出家を思いとどまらせた。12月11日、尊氏と直義は出陣し、直義は箱根路を支え、尊氏は箱根山の北の竹下に向かうことになった。新田勢は箱根に敵の主力が集まると考えて義貞が7万余騎を率いて向かい、竹下には尊良親王に義貞の弟の脇屋義助をつけて向かわせた。箱根路では激戦が展開されたが、次第に新田方が有利になった。

 竹下へは中務卿である尊良親王の配下に、公家の諸家に仕える武士たちや、院の御所を守護する北面の武士たちを集めて500余騎が控えていたが、自分たちの力のほども考えずに、各地の武士たちに先んじられては面目が立たないと考えたのであろうか、官軍のしるしである錦の御旗を先頭にして、竹下に押し寄せ、敵がまだ矢を一矢も射ないうちに、「一天下に王たる君に向かって、弓を引き、矢を放つもの、天罰を受けるであろう。命が惜しければ、兜を脱いで、降参せよ」と口々に叫んだ。

 足利方の三浦因幡守、土岐道源、赤松筑前守は前回にも触れたように、300余騎で宵のうちから先陣に立っていたが、新田方の軍勢の馬の進め方、旗の文様から判断すると、公家侍の一隊がやってきたと思われる。矢が無駄だから味方に遠矢を射させるな。一斉に刀を抜いてかかれと指示を下し、300余騎の兵が武勇の家に生まれたものは名を惜しむが、命を惜しむものではないぞ。そういわれてきたのが本当かどうか、実戦で確かめてみようと、はなから(実戦経験の乏しい)相手を見くびり、鬨の声をあげて、轡を並べ、刀を一斉に抜いて戦闘に取り掛かる。(この時代の戦闘はまずたがいに遠矢を射て、様子をうかがい、それから接近戦に持ち込むのが普通だったのが、足利方は、新田方の公家侍の力が劣ることを確信して、いきなり接近戦を仕掛けたのである。)

 新田軍は坂のふもとの方に控えていたので、高い方から勢いをつけて攻め寄せてくる足利方の攻勢に対して、どうして一足も踏みこたえることができようか。一戦も交えることなく、退却を始めた。「さっき吐いた高言はどうした、汚いぞ、戻ってこい」と足利方は辱めながら、追撃を続け、尊良親王の軍勢500余騎は捕虜になったり、戦死したりして、残り少なくなってしまった。

 戦闘開始の合戦で失敗した(公家侍達が出しゃばったのがつまずきのもとである)ために、新田方にひるんだ様子が見えたので、足利方の仁木、細川、高、上杉の軍勢が勇躍、尊良親王の陣に攻め寄せる。副将軍である脇屋義助が7,000余騎で馬を進め、鬨の声をあげて、敵の側面から攻めかけた。足利方はこれまでの優勢で勢いづいて下り、側面からの攻撃にもひるむはずがなく、縦横に交差する形で、新田の大中黒の紋と、足利の二引両の紋が、入れ違い入れ違い、東西になびき、南北に分かれて、いつまでも戦い続ける。この一戦に命をかけて戦う兵たちの、二匹の虎が争うようなきっこうした戦いとなって、どちらも退却することがなかったので、馬の蹄が川のように流れる血をけりたて、地面には死骸が散乱していた。

 脇屋義助の子どもの義治は、まだ13歳になったばかりだったが、本隊とはぐれてしまい、3騎だけで敵の中に取り残された。彼は年は若かったが、機敏な人であったので、自分が身に着けていた笠符を引きちぎって捨て、敵に顔が乱れないように、顔を隠して、動揺しない様子でいた。
 父の義助はこのことを知らず、義治の姿が見えないのは戦死したか、捕虜になったかのどちらかであろう。息子の生死を確かめなければ生きているかいがないと、大声をあげて足利方の大群の中に駆け込む。義助が二度にわたり攻撃をかけてきたので、敵の大勢も疲れ、一斉に退却したところ、義治は馬を引き返し、足利方の武士と偽って、退却するのは卑怯である、敵は小勢であるから、もう一戦戦って、討ち死にしよう」と叫び、主従4人で走っていくのを、足利方の兵2騎があっぱれな振る舞いとお見受けした、お供すると一緒に戻ってくる。義助の陣近くなった時に、義治は3人の郎党に目で合図して、主従4騎で、ついてきた2人の武士を切り殺し、その首をとって、味方の陣に戻った。義助は義治が戻ってきたのを、死者が生き返ったように喜び、しばらく人馬を休めよと元の陣に戻っていった。

 新田方の先陣が戦いに疲れたので、控えの新しい軍勢と入れ替えて戦闘を継続しようとしていたところ、後ろの方に1,000余騎を率いて控えてきた大友左近将監、佐々木塩冶判官が何を考えたのか、一矢も射ずに、旗をまいて足利方に加わり、かえって、新田軍に盛んに矢を射かける。尊良親王の軍勢は、最初の合戦で大勢のものが戦死して、もはや戦闘能力がなく、義助の兵は、2度の先頭で人馬が疲れて、軍勢に勢いがない。これらに代わって前線で戦うことを期待されていた大友、塩谷が裏切って、尊良親王に向かって弓を引き、義助に戦いを挑んできたので、新田軍は支えようがなくなった。敵に背後に回られる前に、箱根路の義貞軍に合流しようと、佐野原(静岡県裾野市佐野)へと退却する。

 仁木、細川、今川、荒川、高、上杉、武蔵、相模の兵たちが3万余騎でこれを追走する。ここで、尊良親王が股肱の臣下とお考えになっていた二条中将為冬が戦死し、義助の部下たちは、何とか踏みとどまって持ちこたえようとするのだが、300余騎があちこちで戦死した。このような味方の様子を顧みる余裕もなしに、浮足立った新田軍は我先にと逃げてゆき、佐野原にもとどまることができず、伊豆の府(三島)も持ちこたえることができなくなって、搦め手の兵3万余騎は、東海道を西へと逃亡したのであった。

 新田方が主力を箱根に向けたことで、直義に対しては優勢に戦いを進めることができたが、足利方は主力を竹下の方に向けていた。しかも竹下では新田方の戦術ミスに加えて、大友・塩冶の裏切りが出て、足利方が圧勝するという結果になった。これまでのところ、新田方の方が軍勢は少ないのだが、士気が盛んなうえに、義貞とその執事である船田入道の作戦が見事に当たって、足利方に対し優勢に戦いを進めてきたが、ここで戦局に大きな変化が現れ始めた。
 『梅松論』(この間の事情について、『太平記』とはかなり違う記述がされている)には、大友は裏切る前にすでに足利尊氏と連絡を取っていたと記されており、尊氏の大将としての器量が義貞を上回っていることも察せられる。森茂暁『太平記の群像』には、「尊氏が武家の棟梁としての意識を強くもっていたことは、六波羅探題陥落の前後から、的確な情勢判断の上に立ち、全国から上京する兵士たちの着到状を受理し、証判を加えた事実に明瞭である」(角川文庫、124ページ)とあるが、武将としての能力に加えて、全体を見通す政治的な判断力をもっていたところに尊氏の強みがあったようである。
 さて、箱根路の義貞はどうするのか、というのはまた次回。 
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