佐藤信也『周――理想化された古代王朝』(3)

10月12日(水)やっと晴れ間が広がる。

 紀元前11世紀後半に殷を滅ぼして成立した周王朝は、殷の遺民たちの反乱を鎮めながらその基盤を固め、第3代康王、第4代昭王の時代に最盛期を迎える。王国の基盤を固めるために、王室や重臣の子弟を邦君(王畿内の采邑を領有する)と諸侯(外服の地を治める)に封建し、諸侯を集めて行う儀礼と軍事的な遠征によって統治を進めたが、やがて、遠征の失敗から、宗教的な権威の強化の方に力を注ぐようになる。
 このような変化に伴い、それまでは殷の儀礼を踏襲していたのが、諸侯により実利的な権限や物品を与える冊命儀礼が重視されるようになり、政治も特定の重臣が政務や軍務を指導する体制から、邦君や諸官の長が執政団を形成する集団指導型に変化していく。ところが、第11代宣王の時代になると、重臣による指導と軍事的な遠征が再び試みられるようになる。このために邦君・諸侯の離反を招き、異民族との戦いや、王位の継承をめぐる王室内の戦いが加わって周王朝は存亡の危機に立つことになる。

 第5章「周室既に卑し――春秋期」は、周王朝がその本拠を東方に移したものの、次第に衰退していった状況をたどっている。題名になっている「周室既に卑し(いやし、ひくし)」は戦国時代の竹簡の中に含まれていた『繋年』と呼ばれる史書の第三章「周室既卑、周王東遷、止于成周」(146ページ、周の王室が衰えると、周王は東遷し、成周に留まった)という記述によったものである。
 一般的には西周最後の王である幽王の死(紀元前771年)をもって、春秋期に移ると考えられているが、吉本道雅は幽王の死の翌年から春秋期という呼び方の由来となった『春秋』の記述が始まる紀元前722年(魯の隠公元年)までを東遷期と考えている。(『春秋』は孔子が彼の生まれ育った魯の歴史をまとめた書物であるが、魯以外の同時代の諸国の動向も記されている。)
 『史記』周本紀では幽王の死後、ただちに諸国が東周初代の平王を擁立し、犬戎を避けるために洛邑(成周)に東遷したと記されているが、実は平王の擁立も東遷もそうすんなりと進んだわけではない(と考えられる証拠があるから、吉本説が提唱されているわけである)。

 『竹書紀年』と呼ばれる史書には幽王の死後、彼の弟である携王(王子余臣)と、幽王の子である平王とが、それぞれの支持勢力に擁立されて王位についていたが、携王は在位21年で晋の文侯(春秋の五覇に数えられる晋の文公=重耳とは別人)に殺され、9年間の空白期間を置いて、平王が即位したと記されている。携王については、『春秋左氏伝』の「昭公26年」でも触れられていると著者は記している(143ページ)が、これは当該箇所を紹介する方が親切であろう。
 魯の昭公26年は西暦紀元前516年にあたり、東周の第12代景王が没して、子の悼王が即位すると、その庶兄で父のお気に入りであった王子朝が反乱を起こす(このあたりの経過はこの書物の168~169ページに記されている)。その際に王子朝が諸侯に対して発した布告の中に「幽王の時、天は周に思いやりなく、王は愚かにして頑迷、ためにその位を失い、攜王が王を僭称したが、諸侯はこれを廃して、かわって王嗣(平王)を建て、(洛陽)に遷都した。」(岩波文庫、『春秋左氏伝 下』、270ページ。携ではなく攜という字が使われているほか、(洛陽)としたところ、夾辱にそれぞれ「おおざと」がついた文字が使われている。) だから、紀元前6世紀には、幽王と平王の間に携王という王がいたと伝えられていた。佐藤さんも指摘しているように、「『史記』周本紀が携王について言及していないのは、いささか不審である」(143ページ、あるいは王が複数いて、国政が混乱した状態を司馬遷が好まなかったためであろうか)。

 『竹書紀年』によれば、東遷の年代もふつう言われるように紀元前770年ではなくて、738年ということになるかもしれないが、東遷のはっきりした理由はわからない。東遷の地も、正確には西周期の成周の中心地からやや離れた、漢代の河南県域に相当する王城であることが考古学的に確認されている。
 周王とともに、王畿内に采邑を持つ邦君も東遷を行った。その代表的な例が鄭の桓公であり、西周第10代厲王の子(第11代宣王の弟)あるいは宣王の子とされる。いずれにしても周室に血縁的に近い存在である。その桓公もまた陝西省の華県から今の河南省新鄭にあたる地に東遷する。桓公の子である荘公は次第に邦君というよりも、諸侯のような存在になっていき、後世の学者たちから「小覇」と呼ばれる、春秋時代の覇者の先駆けのような働きをすることになる。(『春秋左氏伝』の最初のところに、鄭の桓公の説話が出てくるだけでなく、「夏五月、鄭伯、段に鄢に克つ」という『春秋』の記述は、五経の中の俳句だという笑い話になっているのはご存知の方も少なくないはずである。)

 今回で、この書物の紹介を終えるつもりだったが、関連して『春秋左氏伝』を読み返したりしたために、余計な興味がわいてきて、脱線が多くなり、春秋時代の周についての記述の論評さえ終えることができなくなってしまった。今、しばらくのお付き合いをお願いする次第である。
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