『太平記』(127)

10月7日(金)晴れのち曇り

 建武2(1335)年11月19日、新田義貞は朝敵追討の宣旨を賜り、同日、官軍の大手・搦め手の軍勢は鎌倉の足利尊氏・直義兄弟を討伐すべく、東海道と東山道を下った。鎌倉では、直義が兄尊氏に出陣を促したが、尊氏は天皇に恭順の意を示すべきだとして取り合わなかった。23日、直義は伯父である上杉憲房らの勧めで出陣したが、27日、三河国矢矧の合戦に敗れ、鷺坂、手越でも敗退した。鎌倉に帰った直義は、尊氏に偽の綸旨を見せて出家を思いとどまらせた。尊氏が出家を思いとどまったと知って、京方に降参しようとしていた大名たち、あちこちに落ち延びようとしていた軍勢も、ここで急に気を取り直して鎌倉方に集まってきたので、鎌倉じゅうの軍勢はまた30万騎を数えるに至った。

 12月11日、尊氏・直義の両陣の手分けがあり、直義は箱根路を支え、尊氏は箱根の北、足柄路の要所である竹下(たけのした=静岡県駿東郡小山町竹之下)に向かうことが決まった。そうはしたけれども、これまでたびたびの合戦に連敗してきた武士たちは、気分を切り替えて奮い立たせることができず、どっちつかずでいた挙句に最近になってはせ参じてきた武士たちは大将の出陣を待ってぐずぐずしていたので、義貞の軍はすでに伊豆の府(こう=三島)を出発して、その夜三島から箱根へ至る山道である野七里山七里(のくれやまくれ)を越えたという噂であったが、鎌倉勢はまだ箱根へも竹下へも向かおうとはしていなかった。

 鎌倉方の大名である三浦因幡守(貞連、矢矧の戦いに参加していた)、土岐道源(矢矧の戦いに参加していた)、赤松筑前守貞範(赤松円心の次男。円心は鎌倉幕府を滅ぼすにあたり大きな功績をあげたにもかかわらず、播磨守護職を召し上げられた不満から足利方についていた)の3人は、竹下に向かうことになっていたが、「このようにお互いに顔色を窺いあって、鎌倉でぐずぐずしていても仕方がない。この際、他人のことはどうでも構わない。とにかく、まず竹下に打ち向かって、あとから味方がやってくる前に敵が攻めてくればそれはその時のことで、討ち死にするまでだ」と決死の覚悟を決めて、11日の夜に、竹下へと急ぎ向かう。彼らに従う軍勢はわずか100騎ばかりなので、どうも心配で落ち着かない様子である。(流布本では3人のほかに、足利(斯波)高経・家兼兄弟、土岐道謙の兄の頼遠、佐々木道誉も竹下に先発したことになっている。)

 竹下に到着して、敵の陣をはるかに眺めてみると、西は伊豆の府、東は野七里山七里に篝火をたいて野営している様子がはっきりと見え、その数は数百万もあろうか、数え切れないほどであり、晴れた夜に星の光が、青い海に映るようである。「こちらも、篝火を焼け」と、雪に埋もれた枯れ草を払って、ところどころに刈り集め、やっとのことで火を吹き付けたが、夏山の狩りで、夜中に鹿寄せのために焚く篝火のようにまばらな様子である。それでも、足利方の運が強かったので、新田方はこの夜のうちには来襲しなかった。

 夜がすでに開けようとしているころ、尊氏が10万余騎を率いて竹下へ到着する。直義は、6万余騎で箱根の峠に到着した。

 明けて12日の辰刻(午前8時ごろ)、義貞軍は伊豆の府で軍勢の配置を行った。竹下には、中務卿(尊良)親王に貴族たちを30余人お付けして向かわせることとなったが、大将となる武士がいなくてはまずいだろうと、義貞の弟の脇屋義助の他、大友左近将監、塩谷判官高貞らを向かわせた。箱根路には、敵の主だった大将がやってくるだろうと、義貞とその一族20余人、千葉、宇都宮、大友、菊池などの大名30余人、合わせて7万余騎が大手(箱根路)に向かった。

 同日、午刻(正午ごろ)戦闘が開始され、大手、搦め手十余里(箱根八里というから、十余里は誇張である)、敵味方80万余騎(これまた誇張で両軍合わせて50万余騎もいないはずである)が、天地を響かせて攻め戦う。箱根では、九州の大名菊池肥後守武重が先陣を承り、山を下って攻め立ててくる敵3,000余騎を追い散らし、追い上げて、坂の途中に盾を突き刺して、一休みする。その後、千葉、宇都宮、河越、高山、愛曽、厚東、熱田大宮司、それぞれが陣を構えて、えいえいと掛け声を出して、一息休んでは喚き叫んで戦う声が、しばらくもやむ時がなかった。

 新田方に加わっていた道場坊祐覚という山法師は、稚児10人、同じ僧房に住む僧30人とともに従軍していたが、稚児は紅下濃(紅色の縅毛を下に行くほど濃く染めた鎧)、僧兵は黒糸の鎧をそろいできて、稚児全員に紅梅の造花を一枝ずつ兜の正面に着けさせていたが、盾から身をあらわして進んできた。実戦向きではない装飾過剰の一隊である。足利方は、稚児だからと言って手加減するなと、盛んに矢を射かける。稚児たちが重傷を負って倒れたので、其の首をとろうと足利勢の武士たちが襲い掛かるが、祐覚と同宿の僧兵たちが太刀の切っ先を並べて、負傷者の上を飛び越えながら、切って切って切りまくる。祐覚たちの方が大きな太刀を使っていたので、足利方の武士は劣勢になり、祐覚たちは負傷者を無事収容して引き上げた。

 義貞の配下に十六騎が党という弓の名手達がそろっていて、戦いの要所要所でその弓矢が効果を発揮する。義貞の執事である船田入道が戦目付の役割を果たし、義貞が戦いの全体を見守る中、新田方の千葉、宇都宮、大友、菊池の軍勢は次第に足利方を圧倒し、6万あった直義は以下の兵たちはその10分のもいないのではないかと思われるほどである。こうして、大手の戦いで新田勢は優勢に立ち、足利勢を追い立て始める。鎌倉勢の中で気を吐いたのは信濃の武士で清和源氏の村上信貞で、500余騎で新田軍の追撃を食い止めた。これには直義も大いに感激して信濃の国の塩田庄を褒美として与えるとの約束を与えたほどであった。

 今回も新田軍の方が優勢に戦いを進めているが、敵の主力が箱根の方にやってくるという重大な判断ミスをして、義貞は直義の方と戦い、尊氏の本隊が竹下の方に向かっていたことを計算に入れていない。実は勝敗の分かれ目になってくるのは、その竹下の戦いの方である…ということは次回。 
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