佐藤信也『周――理想化された古代王朝』(2)

10月5日(水)曇り

 古代中国の殷に続く王朝である周は、紀元前771年までの西周と、その後の東周の2つの時代に分けられる。そして東周の時代もまた、通常春秋と戦国の2つの時代に分けられている。
 農耕と定住を理想としながらも、移動性の非農耕民としてのアイデンティティも強くもっていた周は、殷の文化を摂取しながら次第に強大化し、やがて殷を滅ぼして新しい王朝を建設する。しかし殷の遺民たちの反乱は続き、それを抑止するために国王や重臣たちの一族を諸侯として封建することで国づくりを進めていった。その中で特に重視されたのが「祀(祭祀)」と「戎(軍事)」である。西周の前半期には会同型の儀礼を通じて国王から臣下にいたる人々の結びつきの強化が図られたが、そのような祭祀の主要な性格は殷から継続してきたものであった。また西周の前期は、盛んに外征が行われていたことを示す記録もある。

 しかし4代目の昭王が南征中に没したという伝承が伝えられているように、このような外征が挫折する時代が訪れたことが推測される。昭王の次の穆王の時代から金文の内容に変化が見られ、軍事行動は防衛が中心となり、その分、祭祀儀礼が盛んになって、宗教的な権威の強化によって統治体制の立て直しが図られたのではないかと考えられる。(以上、第2章までの要約)

 第3章「変わる礼制と政治体制 西周後半期Ⅰ」ではまず「礼制改革」が取り上げられる。
 考古学的にみると、祭祀儀礼で用いられる青銅礼器の種類やデザインが変わり、殷の影響を離れた周の独自性が出てくるという。また、金文に見える儀礼を通じて知ることができるのは、「会同型儀礼」の記録が次第に減少し、一定の形式で周王が臣下に官職や職務を命じる冊命儀礼の記録が増加するということである。このような儀式を通じて、臣下のものは一定の権限を与えられただけでなく、その権限を示す官服や車馬具などを与えられた。「会同型儀礼」の場合よりも、実利性が重んじられるようになってきたのである。

 西周後半期になると、それまでの特定の重臣が政務や軍務を指導する体制に変わり、国王に血縁的に近い一族で他の諸侯を指導する立場にある邦君や諸官の長が執政団を形成し、集団で指導する体制となる。
 冊命儀礼を行うようになったのは、第5代穆王の時代であったが、その子である第6代の共王は冊命儀礼を推進するとともに「会同型儀礼」の保持を図ろうとしたようである。この時期の諸王(第6代共王・第7代懿王・第8代孝王、第9代夷王)は伝世文献でその事績が語られることがなく、影が薄い。夷王については諸侯に対する暴虐な振る舞いや暗愚さが文献に記されており、それがその後の三大の王に受け継がれることになったとも想像できる。

 第4章「暴君と権臣たち 西周後半期Ⅱ」は、「追放された暴君」として第10代厲王の治世の特徴を論じることから始まっている。伝世文献では暴君とされる厲王は親征を繰り返すことで、昭王の時代までの軍事王としての性質を取り戻そうとし、周王としては例外的に長銘の金文を残している点などを考えると、おそらくは祭祀王としての性質も取り戻そうとしていた。このようにそれまでの諸王とは大きく異なる政治姿勢を示したことで、厲王は臣下の不安と反発を招き、在位37年にして国人の反乱により周から亡命することになった。
 「『史記』周本紀によると、その後、周では召公(これもおそらく召穆公を指す)に匿われていた太子静、のちの第11代宣王が成長し、厲王が彘(てい)の地で没するまで、14年にわたって王が置かれず、召公と周公(周公旦の子孫であろう)の2人の大臣が政務を司り、共に和して政治を行ったということで「共和」と号したという。これが世襲君主の存在しない政治体制を指す、republicの訳語としての共和制の語源である。この「共和の政」が開始されたのは、西暦では前841年のことである。」(115ページ)
 しかし、著者はこの『史記』の記述に異論を唱え、『竹書紀年』を手掛かりとして、共伯和という人物が天子たる王に成り代わって政治を行ったと考えるべきではないかと論じている。

 共和14年に厲王が亡命先で死去したことを受けて、第11代となる宣王が即位した。この王の時代から、周王だけでなく臣下についても伝世文献と金文の双方で照合が可能な人物が増えてくるそうである。
 宣王は父厲王と同じく執政団政治に代えて、特定の権臣に政務を執行させる体制を採用するなど、復古的な政策を実施した。積極的に外征を行ったのも同様である。宣王は『詩経』では中興の英主とたたえられているが、白川静によるとそれらの詩は、この時代に鼓舞された復古精神の産物であったようである(はっきりと入っていないが、自画自賛だということである)。(執政団政治の方が特定の権臣による政治よりも国王にとっては有利なはずなのに、その判断ができないのは、すでに特定の権臣が宮廷内の有力者としてのさばっていたという既成事実があったと考えるべきであろう。)

 宣王の子が西周最後の王となる第12代幽王である。幽王が美女褒姒に迷って彼女を笑わせようと知恵を傾けた→国を傾けたという説話はともかくとして、昭王による南征の失敗以後の長期間にわたる周王朝の緩やかな衰退、周の西北に勢力を持ってたびたびその領域を侵犯してきた犬(玁=けん)戎による圧迫(さらに周の東南にいる異民族である淮夷との戦いも加わる)、さらに王朝内での王位や政治の実権をめぐる内紛が滅亡の原因として考えられる。犬戎は周と同じく農耕と非農耕の二重のアイデンティティを持つと考えられる人々であり、その実態をめぐっては謎の部分が大きく、西周の滅亡をめぐってもまだまだ謎に包まれた部分が多いというのが正直なところなのではないかと思う。

 佐藤さんはおそらく知っていて、無視しているが周の穆王をめぐる民間伝承の類は優に数冊の本が書けるほどの量があり、実は私も無視して紹介しなかったが、『太平記』第13巻に穆王が天馬に乗って天竺の舎衛国で釈尊が法華経を講ぜられている場面に到達するという説話が出て来る。そしてそのあと菊慈童とその長寿の説話に続く。法華経というのがいかにも中世の日本的で、『穆天子伝』では崑崙山で西王母と会ったという話であったそうである。なお、穆王が遊び歩いているうちに、東方にあった徐の偃王が急速に勢力を拡大してきた。しかし、偃王は平和主義者だったので穆王が軍隊を率いて鎮圧に向かってきたというのを聞くと、そのまま逃げだして、山中にこもってしまい、その後、その山を徐山と呼ぶようになったという。なぜ、この話を書いたかというと、秦の始皇帝に不老不死の薬をとってこいと言われて、日本にやってきたといわれる徐福はこの偃王の子孫だという説があるからである。

 書物の本筋を少し離れてしまったが、周王朝というのが外国の、我々とは無縁な王朝ではないということが、日本の説話文学の行間をたどっても、わかると思うのである。春秋時代以後の周王朝の行く末についてはまた機会を改めて。 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR