Côte du Poivre

10月3日(月)雨が降ったりやんだり

 梅棹忠夫の『東南アジア紀行』(中公文庫)を初めて読んだのは、おそらく30年以上昔のことであるが、その後、タイに出かける機会があり、帰国してからこの本を読み直して、旅行前にそうしなかったことを後悔した記憶がある。

 梅棹がタイを中心にカンボジア、ベトナム、ラオスの東南アジア諸国への学術旅行を行ったのは1957年から58年、今から60年近く前のことである(その後、1961年に。解説で石井米雄(外務省留学生としてタイに滞在中、梅棹の旅行の一部に同行した)が書いているように、これらの国々の状況はその後大きく変化した、「にもかかわらず、〔文庫本が刊行された1979年からさかのぼって〕ふた昔も前の旅行の噺が、いま読み返してみて、少しも古さを感じさせない。むしろ、特派員の報道以上に、新鮮な感覚を味わうことができるのはなぜだろうか。それは、梅棹さんが、揺れ動いて止まらない現象の背後にある、歴史の流れに視座を置き、透徹した歴史の目で、東南アジアの本質をとらえようロしているからだと私は思う」(309ページ)と書いている。この書物が、各国の変化にもかかわらず、価値を失わないというのは石井の評価するとおりである。それはなぜか、ということになると、私の書いていることも、石井の書いていることと本質的に変わらないのかもしれないが、その時点、その時点でのそれぞれの土地に住んでいる人々の姿をどんな家に住んで、何を食べて、何をして生計を立て、どんな服装をしているか…といった生活の具体相を克明に探り出し、描き出しているからではないかと思う。

 そういう梅棹の好奇心と観察眼、記録眼がよく出ている箇所が、カンボジアの数少ない港町であるカムポットからプノムペンに帰る途中で見かけた農家の様子をめぐる箇所である:
来るときから気がついているのだが、この付近の農家には、他と全く形の違うのがある。ずっと見慣れてきたカンボジア風の高床住宅ではなく、土間になっている。それから何かえたいの知れぬ作物がある。ワラで日よけ棚のようなものを作って、ひどく集約的な栽培をしている。これは何だろうか。
 本箱の中にE.H.DobbyのSoutheast Asiaがある。それを読んでいるうちに、カムポット付近が世界第2のコショウの生産地であり、しかも知れが中国人の農民によって栽培されている、という記述を発見する。「ははあ、これだなあ」とわたしは合点する。あの奇妙な作物は、コショウに違いない。それに、あの土間の家も、中国人だとすれば、納得がゆく。本箱にはまた、A Agardno, L'Union Indochinoise Française ou Indochine Orientaleの訳がある。それによると、コショウの栽培はカムポットおよびタケオの2州に限られ、海岸地方は別名をCôte du Poivre (コショウ海岸)という。そして、コショウに対する課税は、カンボジア政府の財源の中で、最も重要なもののひとつであると記してある。(以下略)」(下巻、65-66ページ)〔集約的な栽培をしているというのは、商品になるような作物を作っている可能性が高い。〕

 石井が解説で書いているように、ジープに乗って東南アジア諸国を歴訪中に梅棹は後部座席に寝転んで『移動図書館』と名付けた木箱の中の書物をかき回しては、自分の好奇心にこたえるものを見つけて、問題を一つ一つ探し当てていった。ここで、彼の探求の後追いをするのはやめて、もう少し先回りをすると、現在のカンボジアではコショウはどの程度生産されていて、それは世界のコショウ生産の中でどのような位置を占めるのか、コショウ生産の担い手は依然として中国系の農民であるのかという問題が残る。(コショウの生産と生産地の変遷は、世界史における重要な問題の一つなので、機会を見つけて調べていきたい。たぶん、この問題については包括的に論じた書物があるはずである)。梅棹はDobbyの書物により、カムポットおよびタケオ州の自然条件がコショウ生産に適していることを記し、中国人が商人ではなく、農民として海外に定住しているのは珍しい例であり、その理由については不明な点が大きいと述べている。

 肉食が主流で冷蔵技術が未発達であった西洋の中世ではコショウは料理に不可欠なだけでなく、肉類の長期保存のためにも大いに重視され、その主要な産地である南アジア・東南アジアへの海路による到達を目指すことが大航海時代の動因の1つであったとも考えられている。日本の正倉院御物にもコショウがあるよしだが、日本人はコショウを求めて海外に進出していこうとは考えなかった。

 さて、Cote du Poivreというのは初めて聞いたのだが、この種の地名で国家の正式名称として残ったのがCote d'Ivoire (コートジボアール、英語ではIvory Coastという方が普通である)。西アフリカのギニア湾北岸の地域をthe Gold Coast(黄金海岸)、その西側がすでに述べた象牙海岸(Ivory Coast)であるが、東側を奴隷海岸(Slave Coast)と呼んでいた。黄金海岸や奴隷海岸は今日地図に地図からその名を消し始めているが、黄金を収奪者や商人たちから強奪すること、奴隷貿易にかかわることに比べて、アフリカゾウを乱獲してその象牙を他の世界に持ち出したことが、歴史上の記憶に値する行為であったかどうかは疑問である。
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