吉田健一「海坊主」

9月24日(土)雨が降ったりやんだり

 1956(昭和31)年4月18日から7月27日まで、吉田健一(1912-1977)は『西日本新聞』に「乞食王子」という随筆を連載し、同じ年の10月に同名の随筆集として新潮社から出版した。ここで紹介する「海坊主」はその中の1編であり、随筆のように書き出されてはいるが、実は短編小説である。随筆集の中に短編小説を紛れ込ませるのは、一種のいたずらとも受け取れるが、吉田健一にとっては随筆とか、小説とかいう分野の区分はあまり重要なことではなかったのではないか。とにかく、思い浮かんだことを書く。もともと日本の随筆にはそういう性格がある。『徒然草』の中にだって、短編小説のような味わいを持った段がみられる。

 戦後首相を務めた吉田茂の長男であり、一時首相を務め、現在は副首相兼財務相である麻生太郎氏の伯父である(吉田の妹の和子が麻生氏の母親である)が、吉田が首相在任中、父子の折り合いはあまりよくなくて、健一は闇屋やモク拾いのまねごとをしたり、(まあ一種のしゃれで)乞食をしたりしていた。『乞食王子』という随筆の題は、もちろん、マーク・トウェインの有名な作品からとったのだけれども、吉田健一には、確かに「乞食」的な部分と「王子」的な部分が同居していた。そして、乞食と王子が1人の中に同居することの傍観者性と気楽さを確認したうえで、この立場から社会・文明を批評としている。「没談国事」ということで、政治的な議論はできるだけ避けているのだけれども、時々、真の保守主義とはどのようなものであるのか、というような議論が展開される。そこに、英文学に親しむ中で、英国の社会と政治についての文学的な感受性を身に着けた吉田らしい意見を見出すことができる(全面的に賛成しているわけではない)。社会や文明に対する批評が時として、たとえ話になり、たとえ話が一種の小説になるのはすでに書いたとおりである。

 このところ雨が降り続いているので、「海坊主」という話を紹介するのには好都合である。
 語り手が銀座の松屋裏にある岡田屋という料理屋で、一人杯を傾けていると、背の高い、がっしりした体格の男が入ってきた。初めてこの店に入ってきたらしい男であるが、体格がいいだけでなく、酒の飲み方がよくて、見とれるほどであった。それだけでなく、彼の奇妙にかすれた感じの声も親しみが感じられ、「一杯如何ですか」とこの男から酒を勧められると、席を移して一緒に飲み始めたのはごく自然なことであった。
 男は無口なうえに、「どこか、自然を卓子の向こうにおいて一人で飲んでいる、という風な感じにさせてくれる人間だった」(講談社文芸文庫版、150ページ)ために、盃が進んだ。

 どこか別の店で飲もうということで、語り手のなじみのバアであるエスポアールに出かけると、男は急に能弁になり、店の女の子たちを喜ばせ、座を盛り上げた。男は、語り手の予期に反して、銀座には詳しい様子で、さらにほかの店、焼き鳥屋やビフテキ屋に出かけたが、この男の食べっぷりには目覚ましいものがあった。最後に、男がなじみにしているらしい、隅田川の川っ縁の料理屋に入る。

 「川っ縁で飲むのもいいものである。雨は止んだ、月まで出ていた。隅田川の水はその光を受けて、川のようでもあり、海の感じもして、潮が上げて来ているのが水面を一層広くして見せた。男は、ここでは「岡田」の時と違って、盃を置いてからまた飲むまでの時間が長くなり、飲んでは川を眺め、その合間に、いつ頃行ったのか、南洋の話をしたりなどした。」(154ページ)

 酒を1人で飲むのもいいが、誰か相手がいて飲むのもいいものである。そしてその相手は、安心感のある人間がいい。この男の正体は読んでのお楽しみとして、こういう「自然」を感じさせるような相手と一緒に飲むのが楽しいと吉田が思っていたことは確かである。それだけでなく、雨とか、濡れた歩道の光とか、月に照らされた川など、舞台装置もよく整っている。そして、最初に銀座の松屋裏などと実在の場所を持ち出して、自分の実際の経験のように見せかけておき、次第に幻想の世界へと入っていくのであるが、これは計算というよりも、吉田のいつもの思考の反映であったようにも思われる。
 この作品を何度読んでも、こんな風にして酒が飲めればよいと思ってしまう。(そんな風にして酒ばかり飲んでいたから、吉田は「貧乏」で『宰相御曹司貧窮す』などという本を出す羽目に陥ったのである。――吉田はこの本の題名が気に入らず、同じ内容の『でたらめろん』という私家版をつくったようではあるが・・・ もちろん、「貧乏」というのは半分以上洒落であり、それがわからないとこの作品の面白さもわからない。) 
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