佐藤信也『周――理想化された古代王朝』

9月20日(火)雨

 佐藤信也『周――理想化された古代王朝』(中公新書)を読み終える。中公新書の1冊として刊行された落合淳思『殷――中国最古の王朝』の後を受けて、殷に続く周王朝の歴史を概観する書物である。

 この書物は次のように書きだされている:
 「周は、紀元前11世紀後半ごろに殷王朝を倒すことで成立し、およそ800年後の前256年に滅んだ中国古代の王朝である。この州の時代は2つの時期に分けられる。前771年までの前半部を「西周」といい、動乱によって西周最後の幽王が敗死して以降の後半部を、「東周」と呼ぶ。東周の時代はまた通常春秋期と戦国期とに二分される。」(ⅰページ)

 これまでのところ、中国の歴史に関心のある一般の読者が興味を寄せるのは、「東周」の方が主であり、西周の歴史はその前段として扱われることが多かったと著者はいう。中国史学の大家である宮崎市定(1901-1995)などは幽王による西周の滅亡とその後の東遷は後世による創作であるという「西周抹殺論」を唱えさえした(これは私も読んだ記憶がある)。「しかしこの「西周抹殺論」は、西周の同時代資料となる金文、すなわち青銅器の銘文を無視して組み立てられた空理空論である。そして金文を主要な資料として再構成された西周の歴史は、東周の前段に甘んじなければならないほど空疎なものではない」(ⅱページ)というのが著者の見解である。この認識に立って、この書物は文献研究と考古学の成果の両方を踏まえて、周王朝の歴史を西周に力点を置きながら概観している。東周の歴史を西周の後日談と位置づけることで、春秋時代の覇者や、秦の始皇帝の事業のこれまでとは違った側面が見えてくるはずだという。

 周王朝の在り方を示すキーワードとなるのが「祀(し)」(祭祀)と「戎(じゅう)」(軍事)であるという。政治と一体化した祭祀儀礼の作法や制度、さらに社会的な規範が整えられて行く中で、それらをひとまとめにした「礼制」が形成される。西周の時代に成立し、行われていたと信じられていた礼制を復興し、再現しようとしたのが孔子をはじめとする儒家の人々であった。しかし彼らは西周の礼制を忠実に再現できたのであろうか。周の歴史とともに、礼制の歴史(それは現代の日本人にとっても無縁なものではない)もこの書物の関心事となっている。

 この書物は次のような構成をとっている。
序章  新出史料から明らかになる周代の歴史
     1 伝世文献と出土文献
     2 西周期と東周期
第1章 創業の時代――西周前半期Ⅰ
     1 王朝成立以前
     2 殷周革命
     3 反逆する殷の遺民
第2章 周王朝の最盛期――西周前半期Ⅱ
     1 諸侯の封建
     2 周王の主催する会同型儀礼とは
     3 南征に倒れた昭王
第3章 変わる礼制と政治体制――西周後半期Ⅰ
     1 礼制改革
     2 王朝を動かす執政団
第4章 暴君と権臣たち
     1 追放された暴君
     2 中興の光と闇
     3 西周の滅亡
第5章 周室すでに卑し――春秋期
     1 周の東遷
     2 覇者、斉の桓公と晋の文公
     3 東周王朝の祀と戎
第6章 継承と変容
     1 礼制の再編、孔子の登場
     2 断章取義する春秋人
終章  祀と戎の行方――戦国期以後
     1 王朝の終焉
     2 周の祀は継承されたか

 序章 「新出史料から明らかになる周代の歴史」では、まず研究の手掛かりとなる史料について、『尚書』や『史記』のように伝統的に受け継がれてきた漢籍である伝世文献と、考古学的な発掘あるいは盗掘や偶然の発見によって出土した文字資料である出土文献、さらに出土文献の中でも金文と甲骨文と竹簡とがあることを概観して、周王朝についてどのような情報が与えられているかを明らかにしている。
 次にこれまでの研究成果から西周が
西周前半期Ⅰ 文王・武王・成王の時代。周王朝の創建期。(→第1章)
西周前半期Ⅱ 康王・昭王・穆王の時代。支配領域拡大期。(→第2章)
西周後半期Ⅰ 共王・懿王・孝王・夷王の時代。周王朝の政治的秩序が完成された安定期。(→第3章)
西周後半期Ⅱ 厲王・宣王・幽王の時代。混迷期。(→第4章)
に4分され、東周が
東遷期 紀元前770年から前723年まで。地方を収める諸侯が時代を動かす中心となっていく趨勢が固まるまでの混乱期・移行期。(→第5章)
春秋期 有力諸侯が覇者として他の諸侯を指導した時期であるが、西周以来の政治的枠組みがそれなりに有効な時期でもあった。(→第5章、第6章)
戦国期 「戦国の七雄」と呼ばれる諸侯たちがそれぞれ王と称して争ったが、秦が最も有力となり、始皇帝によって中国が統一されるまでの時期。(→第6章、終章)
に分けて記述されることが示されている。(これらの区分については研究者の意見がまだ一致していないことも記されている。)

 第1章「創業の時代 西周前半期Ⅰ」では、まず伝世文献に基づくと、王朝成立以前の周の人々は定住(農業)と移動を繰り返してきたとされることを紹介し、これは歴史的な事実の反映というよりも、周の人々が定住性の農耕民と、移動性の非農耕民の2つのアイデンティティの板挟みになっていたことによるものではないかと論じる。この2つのアイデンティティは、政治的・軍事的な情勢に応じて使い分けられていたようでもある。周の東で強大な勢力を持つ農業国の殷との交流は盛んであり、王室を支える存在にまでなっていたという。
 紀元前11世紀の後半に周が殷を倒す(克殷)ことにより、周王朝が成立した。しかし、周の創業期には殷の遺民による反乱が繰り返し起きた。周はこれらの反乱を鎮圧し、一族を封建してその支配を強化した。またこのような軍事行動に加えて、周王朝の新しい拠点として現在の河南省洛陽市一帯の地域で成周(洛邑)の造営が行われた。
 この章では、なぜ周が殷を倒そうとしたのかがどうもはっきりしない。周が農耕民と非農耕民の二重のアイデンティティを持っていたというのは、旧約聖書のイスラエルの人々を思い出させるのだが、周では農耕民のアイデンティティの方が重視されていたようであるが、旧約の場合は非農耕民のアイデンティティの方が価値があるものだと考えられているというのが大きな違いである。

 第2章「周王朝の最盛期――西周前半期Ⅱ」では、まず周王朝のこの時期における統治機構が概観される。政務や軍務の指導を行うのは、王室出身者など特定の重臣であったと考えられる。周王朝の直轄範囲は周王直属の官が管理するが、その外側の地方については諸侯が管轄する。ただし、直轄地である王畿内においても、実際に周王やその官が直接統治するのは主要な都邑だけで、その周辺の地域は周王に使える貴族(=邦君)に与えられていた。この時期の周王朝は、邦君の支配する采邑だけでなく、諸侯国にも同じように命令を発することができた。
 各地の諸侯に任じられたのは王室・重臣の子弟である。諸侯は与えられた拠点や交通路の確保とともに、王朝への効能や戦時の軍役への参加などの各種の義務の遂行が期待された。
 周王は、邦君や諸侯などの臣下を統合するために、官僚機構を通じた統御とともに、自らが主催する儀礼や祭祀に参加させた。このような王の主催と多種多様な人々の参加によって成り立つ儀礼を、著者は「会同型儀礼」と名付けている。これらの儀礼の際に、王はさまざまな階層の人々と接し、宝貝などの物品の賞与によって関係を結ぶことができた。このような儀礼の中心となったのが辟雍(へきよう)であり、円環形の璧玉のような形をした池水で、真ん中の部分が円形の島となっている施設である。辟雍は祭祀儀礼の場であるとともに、池水に魚が飼われ、その周辺に虎や狼のような猛獣を含む動物が放し飼いにされた野外動植物園としての性質も持っていたようである。ところが、辟雍については野外動植物園であったということは記憶されず、祭祀儀礼の場であることだけが伝わり、のちの時代には天使の学校であったというように誤解されるようになる。
 このような会同型儀礼は殷の制度を継承したものであり、周王朝は殷王朝の礼制を踏襲し、その基礎のもとに発展させていったと考えられると著者は論じる。
 第4代の昭王については南方への遠征中に死亡したという説話がある。この事実を裏付ける金文はないが、「戎」の失敗を「祀」によって補おうとした形跡はあるとする学者もいる。しかし、それだけでこの危機は乗り切れるものではなく、周王朝の「祀」はさらなる変革を迫られることになる。

 第3章以下の紹介と論評は、またの機会に譲るつもりである。中国の歴史を概観した書物は、一般的に、伝世文献にその多くを負っているわけであるが、そこには歴史的な事実や、その時代の考え方が、正しく伝わっている部分と、そうでない部分があるということを、改めて確認させられ、興味深く読み通すことができた。さらに農耕民族と非農耕民族の二重のアイデンティティという問題は、古代のさまざまな民族、国家に共通する問題であると思うので、改めて考えなおしてみたいと思う。
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