『太平記』(124)

9月16日(金)曇り、時々雨

 中先代の乱を平定して鎌倉に入った足利尊氏は、配下の武士たちから将軍と呼ばれた。また関東管領として新田一族の所領を配下の武士たちに分け与えたことで、尊氏と義貞の仲は険悪になった。建武2年(1335)10月、鎌倉の尊氏のもとから、義貞を誅罰すべしとの奏状が朝廷に届けられた。それを知った義貞も、尊氏追討の奏状を上奏した。公卿僉義が行なわれたが、護良親王殺害の一件が朝廷の知るところとなり、また尊氏が諸国に発した将軍御教書が進覧されたことで、後醍醐天皇は尊氏討伐を決断された。11月19日、新田義貞は朝敵追討の宣旨を給わり、同日、官軍の大手の軍勢は東海道を、搦め手は東山道を下って鎌倉へと向かった。

 尊氏討伐の軍勢が大手、搦め手に分かれて既に京都を出発したと、飛脚をもって鎌倉へ告げる人が多く(ということは、都にも尊氏に心を寄せる人が少なくなかったということである)、事態を知った直義、足利家の執事である高家、尊氏・直義の母清子の実家である上杉家、一族の仁木、細川の人々が尊氏のもとにやってきて、足利家を滅ぼすために朝廷は義貞を大将として、東海道、東山道から大軍をもって攻め寄せてきている。敵に難所を越されてしまうと、守りが難しくなるので、三河の矢矧や駿河の薩多(さった、現在では薩埵と書く)のような要害の地に陣営を構えて防戦すべきだと進言した。これを聞いても、尊氏はしばらく何とも云わなかったが、やがて口を開き、後醍醐天皇のおかげで自分は高い地位に就くことができた、そのご恩は忘れるべきではない。天皇のお怒りの理由は護良親王殺害の件と、各地に軍勢催促の御教書を下したということであるが、2件とも、尊氏自身は関与していない(護良親王殺害は直義が独断で行ったのはすでに見たが、軍勢催促も誰から尊氏の名を使って行ったらしい)。お前たちは自分で身の処し方を考えてほしい。自分は天皇にお会いして申し開きをするし、それが認められなければ頭を丸めて出家するだけだと自分の胸中を語る。そしてそのまま奥へと引っ込んでしまったので、人々は言葉を失う。

 こうして2,3日が経つうちに、討伐軍はすでに三河、遠江に接近してきたという情報が入ってくる。三河、遠江は足利一門の武士たちが多く住んでいる一帯である。足利氏の重臣である上杉兵庫助入道道勤、細川和氏、尊氏の盟友である佐々木道誉が直義のところまでやってきて、相談をする。尊氏の言うところも一理はあるが、建武の新政で公家一統の時代が復活し、武士の間には不満が強い。これまではその不満を代弁する武家の棟梁となるべき人がいなかったが、今は尊氏が将軍として信望を集めている。将軍も、もし自分の身に直接危害が及ぶようなことになれば、考えを変えるのではないか。今、ここで会議に時間をかけていると、敵がどんどん難所を越えて迫ってきてしまう。尊氏を鎌倉に残し、直義を大将とする軍勢が西に向かい、伊豆、駿河のあたりで一合戦して、自分たちの運を試そうという結論に達した。直義はこの意見を喜び、直ちに鎌倉を出発した。

 直義にしたがって出陣したのは、足利一族の吉良、桃井、細川、畠山、斯波、仁木、今川、岩松の武士たち、執事の高氏一族、外戚の上杉一族の武士たちに加えて、外様では佐々木道誉、小山、三浦、宇都宮、佐竹、武田、坂東の八平氏、武蔵の七党が加わり、総勢20万6千余騎に達した。11月23日、鎌倉を出発、27日に三河の国矢矧の東の宿に着いた。

 さて11月26日の早朝に、新田義貞、脇屋義助兄弟の率いる6万余騎の軍勢は矢作川に押し寄せ、敵の陣を見ると、その勢20万から30万余騎も集まっている様子である。義貞は、長浜六左衛門という配下の武士を呼び、この川を渡れる場所があるか、偵察してくるように命じる。長浜が戻ってきて、渡れそうな場所は3か所あるが、向こう岸が高く、屏風を立てたようで、敵も矢先をそろえて待ち構えている。こちらから渡って攻めるのは相手の思うつぼにはまることになろうかと思う。ただしばらく、河原に面したところに軍勢をとどめて、挑発してやれば、向こうから川を渡って攻めてくるだろう。その時、こちらからも迎え撃って川の中に敵を追って、厳しく攻め懸ければ、1度の戦闘で勝利を得ることができると進言する。他の家来たちもこの意見に同意して、技と足利軍に川を渡らせようと、河原に馬の駆ける場所を残し、西の宿の端に南北20余町に本体を展開させ、矢の射手たちを中州の細長く突き出て岬のようになった部分に並べて、遠矢を射させて敵を挑発した。
 
 計略通り、足利方の吉良、土岐、佐々木が6,000余騎で上流の浅瀬を打ち渡り、新田方の堀口、桃井、山名、里見の軍勢に打ってかかる。両者、命を惜しまず火花を散らす攻防が続き、足利方が300余騎、新田方が200余騎の戦死者を出して、お互いに退いた。次に足利方の高師直らが2万余騎で、下流の浅瀬を渡って義貞の右側に陣を構える一族の大島、額田、小森沢、岩松と戦う。3番に足利方の仁木、細川、今川、石堂の1万余騎の軍勢がやはり下流の浅瀬を渡って、義貞の本隊に向かって押し寄せた。義貞はかねてから自分の馬の周りをすぐれた兵を7千余騎に囲ませて、さらに栗生、篠塚、名張八郎という天下に有名な大力の武士を先頭に立て、8尺(2メートル40センチほど)の金さい棒(いぼのついた太い鉄棒の武器)に畳楯(じょうだて、面が広く大きい楯で、蝶番で折り畳みができる)の広く厚いのをつきならべさせて待ち受けていた。
 部下の者たちには敵が攻めかかってきても、むやみに攻めてはいけない。たとえ相手が退却しても、陣形を乱して追ってはいけない。駆けよってくれば切って落とせ。敵が陣を割って入りこもうとすれば、こちらの馬の轡を隙間なく並べて防げ。攻め懸けることはあっても、一歩も退いてはならないと義貞は指示を下す。このため、足利軍は新田軍の密集陣形を崩すことができないまま、次第に疲れ果てていった。そこへ義貞・義助の率いる7,000余騎が整然と攻め寄せたので、足利軍の1万余騎はなすすべなく対岸へと退却、この軍勢も500余騎の戦死者を出したのであった。

 軍勢の多寡だけを考えれば、足利軍の方が有利なはずだが、中先代の乱を戦ったばかりで疲れがある上に、一族がどちらの陣営にも兵を送っていたり、いざとなると裏切る武士も少なくなさそうである。新田方は休養十分、官軍ということで士気も高い。それに、新田義貞は兵力で劣る分、十分に作戦を練って、戦いに臨んでいる。新田方の初戦の勝利が、今後の戦局にどのように影響していくかは、次回以降で見ることにする。
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