『太平記』(123)

9月9日(金)晴れ

 中先代の乱を平定して鎌倉に入った足利尊氏は、配下の武士たちから将軍と呼ばれた。また関東管領として新田一族の所領を彼らに分け与えたことで、尊氏と義貞の仲は険悪になった。建武2年(1335年)10月、鎌倉の尊氏のもとから、義貞を誅罰すべしとの奏状が朝廷に届けられた。それを知った義貞も、尊氏追討の奏状を上奏した。公卿僉義が行なわれたが、護良親王殺害の一件が朝廷の知るところとなり、また尊氏が諸国に発した将軍御教書が進覧されたことで、後醍醐天皇は尊氏討伐を決意された。

 「11月19日、新田左兵衛督義貞朝臣、朝敵追罰の宣旨を下し給はつて、その勢3,000余騎にて、参内せらる。馬、物具、事柄、まことに爽やかに勢ひあつて出で立たれたり。」(第2分冊、358ページ、建武2年=1335年、11月19日に、新田義貞は、朝敵追罰の宣旨を下し給わって、3,000余騎の軍勢を引き連れて、参内した。馬、鎧兜などの武具、風采、まことに爽やかに勢いがある様子で出かけたのである。)『新潮日本古典集成』版(2)では、11月8日のこととして記し、『元弘日記裏書』によると11月19日であるという頭注がついている。

 「内弁、外弁の公卿、近衛の階下に陣を引き、中儀の節会を行われて、節刀を下さる。」(同上、内弁は公事を奉行する公卿の首席。外弁は次席以下の公卿。宮中の紫宸殿の南階下の左右近衛の陣に、公卿が列座した。中儀というのは大儀に次ぐ朝廷の儀式で、6位以上の官人が列席する。節会は、天皇が臨席される宴。節刀というのは出征する将軍に官軍のしるしとして給う刀のことである。(なお、新潮社版の頭注によると、将軍に節刀を給わるというのは、中儀ではなくて、小儀であるはずだという説があるそうである。)
 治承4年(1180年)に東国で挙兵した源頼朝の追罰のために、平維盛が代将軍として下向する際には、しるしの鈴だけを給わって戦場に向かい、富士川で敗れた故事があって、不吉だというので、今度は承平天慶の乱(935-941)で平将門追討に向かう征討将軍藤原忠文が節刀を給わった故事に倣ったものである。義貞は、節刀を給わって、二条河原に兵を進め、まず尊氏の宿所である二条高倉に執事である船田入道を差し向けて、鬨の声を3度あげさせ、鏑矢を3矢射させて、中門の柱を切って落とした。これは嘉祥3年(1108年)に平清盛の祖父である正盛が、頼朝の曽祖父である源義親が反乱を起こしたのを追罰のために出羽国へ下ったときの先例に倣ったものだそうである。(実際には、出羽ではなく、出雲に出かけたはずである。) さまざまな儀式を行って、軍勢を送り出すのが宮廷政治らしいが、あまり先例にこだわっても仕方がないのではないか――と私は思う。

 その後、東国の管領に任じられた尊良親王が、300余騎で、二条河原へ進み出られて、内裏から下された官軍の錦の御旗を、蝉本(旗竿の先端)を白くした旗竿に付けて、さっと差し上げたところ、急に風が激しく吹いて、金銀で打って付けた月日の御紋が、切れて地に落ちたのが不思議な出来事であった。これを見ていた人々は、皆呆然として、今度の合戦の前途ははかばかしくあるまいと、不吉に思わぬ者はいなかった。

 同じ日の正午ごろに、対象である新田義貞が都を出発した。元弘3年にこの人は鎌倉幕府を滅ぼして、その功績は他の武士たちに勝るものであったが、尊氏が天皇の側近くにいたため、それほどの恩賞は与えられなかったが、義貞の陰徳(目立たない徳行)がついに表に出て、今や天下平定の大将の人につかれたので、新田一族も、それに従う他家や他の一門も、今は妬み恨む心を失って、彼の配下に参集しないという武士はいない様子である。

 まず新田一門では、義貞の弟である脇屋義助、その子義治、新田一族の堀口貞満、綿打刑部少輔、里見伊賀守、里見大膳亮、鳥山修理亮、鳥山右京亮、細屋右馬助、大井田式部大輔、大島讃岐守、籠守沢入道、額田掃部助、世良田兵庫助、金谷治部少輔経氏、羽川備中守、一井兵部大輔、足利一族の桃井遠江守、岩松民部大夫、山田郡堤(桐生市)の武士である堤宮内卿律師、これらを主だった一族として、源氏一族が37人、その軍勢を合わせて7600余騎、大将の前後を囲む。
 新田一門の他では、千葉介貞胤、宇都宮一族の総領である治部大輔公綱、大友左近証言、菊地肥後守武重、大内新介、佐々木塩冶判官高貞、熱田大宮司晶能、武田甲斐守、小笠原信濃守などを主だった武将として、諸国の大名323人、率いる軍勢を合わせると6万7千余騎、前陣が既に尾張の熱田に到着した時に、後陣はまだ京都市山科区四宮を流れる四宮川の河原を渡っていた。

 以上の主力が東海道、つまり鈴鹿山脈の南側の道を東へと向かったのに対し、搦め手の東山道を行く軍勢は、順徳天皇の曽孫である大智院宮忠房親王をはじめとする皇族・公卿に、鎌倉攻めの際に活躍した新田一族の江田修理亮行義、大館左京大夫氏義、その他の武士たちが6,000余騎の兵を率いて鎌倉へと向かい、信濃の国からは、同国の国司堀川中納言が3,000余騎を率いて加わったので、その軍勢は1万騎を越えた。

 足利尊氏・直義兄弟を討伐するために派遣された軍勢は大軍ではあるが、この後の物語の展開を見ているとわかるように、戦局の有利・不利を見るために積極的に戦闘に加わらなかったり、寝返ったりするものが出るため、前途予断を許さないというのが本当のところであろう。錦の旗が地に落ちるという事件が記されているのは、このことを暗示するものであろう。朝廷方が儀式の形式を整えたり、先例にこだわったりしているのも、なんとなく頼りない。
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