京都の大仏

9月6日(月)晴れ、雲が多くなってきた。

 昔、奈良の大仏の目が落ちたことがあった。どうやってはめようかと相談していると、一人の男が私に任せろという。そして、大仏の目のところまで行って自分が中に入って目をはめた。目をはめたのはいいけれど、どうして出てくるのだろうかと、下で見ていた連中が気をもんでいると、鼻から出てきた。ここから頭のいい人のことを、目から鼻に抜ける人というようになったというのだが、あてにならない。

 落語の「大仏餠」はこの笑い話をまくらに使う。江戸の大店の前で、6歳になる子どもを連れた、目の不自由な乞食が膝から血を流している。聞けば新米の乞食で、縄張り荒らしだと大勢の乞食たちから袋だたきにされたという。同情した店の主人は手当てをしてやった上に、今日は自分の子どもの袴着の祝いだったが料理が残ったと、残り物を与えようとする。古事記が手にしている面桶(めんつう)を見ると、朝鮮鍬鑵(さわり)の水こぼしを使っている。
 「お前さんはお茶人だね」と家へ上げていろいろときいてみると、芝片門前でおかみの御用達をしていた神谷幸右衛門だという。「あなたが神幸さん。あなたのお数寄屋のお席開きに招かれたことのある河内屋金兵衛です」と、お薄を一服揚げ、菓子として大仏餠を出す。ところが、幸右衛門がこの大仏餠を喉につまらせて苦しんだので、河内屋が幸右衛門の背中をたたくと幸右衛門の目が開いた。
 「あれ、あなた目が開きなすった。」「は、はい、開きました。」「目が開いて、鼻が変になんなすったね。」「はァ、食べたのが大仏餠、目から鼻ィ抜けた。」

 この噺はもともと三題噺で、三遊亭圓朝がお客から出された「大仏餠」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」という3つ題から作ったという。3つの題をうまくこじつけて作り上げた、突っ込んでいくとかなり問題点がある噺をうまくまとめ、登場人物の様子をいかにもそれらしく演出していくのには、相当な技量が必要である。8代目の桂文楽と、同じく8代目の林家正蔵(彦六)が得意としていたが、文楽が高座でこの噺を口演中絶句して、「また勉強して、出直してまいります」と高座を降り、これが最後となったことで知られる。

 さて、問題の1つは噺の舞台が江戸であるのに、大仏餠が京都の名物であったことである。大仏餠が京都の名物であったということは、京都にも大仏があったということである。しかも上横手雅敬『日本史の快楽』(角川文庫)によると2つもあったというのである。有名なのは、豊臣秀吉が方広寺に造った大仏である。これは当時戦火で焼け失せていた東大寺の大仏に代わるものであった。その大仏造立にことよせ、秀吉は農民から武器を没収する刀狩令を出し、没収した刀や脇差は、大仏殿の釘やかすがいに充てると述べた。刀狩令にはこれは国土安全、万民快楽の基なのだと記されているという。全国の農民たちから取り上げた刀や脇差の量は、大仏殿の釘やかすがいに必要な量を上回るのではないかと思うが、当時の人々にとって大仏と仏縁を結んで救われたいという願いは大きかったので、これは説得力を持った説明であったと上横手さんは論じている。

 しかし、この大仏は不運であった。秀吉が造った大仏は地震で壊れ、秀吉の子の秀頼が再建した。この時に、鐘の銘に「国家安康」とあったのを、「家康」の名を2つに切り離したと、家康がクレームをつけ、それが大坂の陣の原因となった。その大仏も寛文2年(1662年)の震災で倒れ、鋳つぶされて銭貨となった(江戸幕府は奈良の大仏の再建の方に取り組んだ)。同7年に木像が造られたが後落雷で焼け、天保14年(1843年)に造られた木像も昭和48年(1973年)に焼けてしまった。「出来のよい仏像ではなかったが、大仏が完全に失われたのは惜しまれる。」(179ページ)と上横手さんは記している。
 方広寺は、現在南隣にある豊国神社、京都国立博物館から三十三間堂までも囲い込んだ広大な寺域を保っていた。「方広寺の門前には名物の大仏餠屋があった。300余年も続き、店の表構えは昭和32年まで残っていたという。」(同上、180ページ)

 方広寺の大仏が焼けたというニュースは大学院在学中に新聞で読んだ記憶がある。その後、跡地に出かけたこともあるが、どうしてまだ大仏があったときに行かなかったのかという後悔は大きい。それにしても、大坂の陣の原因となった銘文の刻まれた鐘の方はいまだに残っているのだから、歴史というのは不思議なものである。上横手さんも、昭和32年まで残っていたことについては確認できたはずなのに、していないらしいが、私は昭和32年の3月に京都に出かけて、三十三間堂も拝観しているので(わけのわからない小学生だったとはいえ)、ひょっとして大仏餠屋の店構えを見ていたかもしれないのだが、一向に記憶がない。

 京都にあったもう1つの大仏は、鎌倉時代に摂政であった九条道家が、東大寺、興福寺を合わせた壮大な東福寺の建立を思いつき、東大寺の大仏に倣って、その東福寺に造立したものである。ただし東大寺の盧舎那大仏に対して、東福寺は釈迦仏であった。(ちなみに方広寺は盧舎那仏、鎌倉は阿弥陀仏)
 こちらの大仏は明治14年(1881年)の火災で焼け失せ、わずかに左手だけが残って、今も保存されているという。「東京に都が移ったとたんに、おつとめを果たしたごとく、大仏殿も消失しました」という東福寺の僧侶の発言が上横手さんの著書に引用されている(106ページ)。

 京都の大仏をしのぶよすがというのは、現在でも京都銘菓として売られている大仏餠だけになっているらしい(写真で見たところ、のどに詰まるようなものではないと思う…というのも突っ込みどころの1つである)。

 文中、不適切な表現があったかもしれませんが、典拠とした資料をできるだけ忠実に再現しようとしたためなので、ご容赦ください。 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR