『太平記』(122)

9月2日(金)晴れ

 建武2年(1335年)7月、北条高時の次男時行が信濃で、一族の名越(北条)時兼が北国で挙兵し、時行の軍は急激に勢力を増して鎌倉に攻め寄せた。鎌倉を守っていた足利直義は形勢の不利を見通して7月26日に鎌倉を退却したが、その際に拘束中の護良親王を殺害した。京都からは時行追討のために足利尊氏が派遣されたが、その際に彼は征夷将軍と関東管領の職を求めた。後醍醐天皇は関東管領のみを許し、征夷将軍は追討の結果によって考えると伝えた。尊氏の軍は、三河の矢矧の宿で直義の軍と合流し、東海道を西へ攻め寄せてきた時行軍を破り、鎌倉を回復した。北国で挙兵した名越時兼も、大聖寺で討ち死にした。こうして中先代の乱を鎮圧した尊氏の勢威は、急速に大きくなった。

 今回から、第14巻に入る。『太平記』は全40巻からなるが、現存する写本の中で、旧い姿を残しているもの=古態本では第22巻が欠けている。岩波文庫版は古態本に基づいているので、実際には39巻という構成である。ということは、既に『太平記』の3分の1を紹介してきたということで、前途はまだまだ遼遠であるとは言うものの、かなりの道のりを歩いてきたことが分かる。さらに一歩、一歩と歩んでいきたい。

 さて、尊氏は中先代の乱を鎮圧し、関東を平定した。関東を平定すれば、尊氏を征夷将軍に任じるという後醍醐天皇の御勅約を頂いているうえは、もはや征夷将軍になったも同然であると、まだ天皇からの宣旨は下されていないのに、配下の武士たちからは将軍と呼ばれるようになった。さらに関東管領としての職務はすでに天皇の御許しを得ているので、反乱の鎮圧に際して武功を挙げた武士たちに、恩賞を与えることになったが、その際に、武蔵、相模、上総、下野にあった新田の一族の武士たちが拝領した土地を、領主がいないことにして、自分の家臣たちに分け与えたのであった。

 この知らせは京都にいる新田義貞のもとに伝わり、義貞としては面白いわけがなく、対抗措置として、越後、上野、駿河、播磨の国で足利の一族が知行している荘園を押さえて、自分の家臣たちに預けた。こうして新田、足利の仲は険悪なものとなり、各地で両者の対立が表に出てきた。

 この対立の根源はどこにあったかというと、元弘3年(1333年)に義貞が鎌倉を陥落させて幕府を滅亡させた功績は、明らかであったので、東国の武士たちは義貞による推挙を望んで、彼のもとに集まるものと考えていたところ、その頃3歳であった尊氏の3男の千寿丸(後の義詮)が戦闘終了後、下野から鎌倉に入ると、父親である尊氏の名声が影響してか、義貞のもとを去って義詮のもとに向かう武士たちが多かったという事情があった。

 義貞はこれに怒って、尊氏と一戦交えようかとも思ったのだが、新しい政治が始まろうとしているときでもあり、仲間喧嘩は慎んだのであった。とは言うものの、新田義貞と足利尊氏の、武門の棟梁をめぐる争いは止めることのできない者であり、やがては天下を揺るがす大乱のきっかけとなるものであった。(このあたりの経緯は、吉川英治の『私本太平記』では鎌倉幕府が滅んだ直後の部分で描かれている。その場面に尊氏の腹心の細川和氏を登場させているあたりも、配慮が行き届いている。)

 さて、京都の後醍醐天皇の身辺では尊氏が反逆を企てていると讒言する者がいて、天皇もひどくお怒りになって、すぐに尊氏追罰の宣旨を下そうとおっしゃられたのに、公卿たちが詮議を行って、まだ疑惑の段階で、大功を挙げた尊氏を処罰するというのは、仁政とは言えないと奏上したので、それではと、後醍醐天皇の信任の篤い恵鎮上人(円観ともいう)を鎌倉に派遣して真相を突き止めてから、場合によっては追罰の宣旨を出すということに決まった。(これは歴史的な史料による裏付けがないようである。ただ、恵鎮上人が極めて重要な人物として尊敬を集めていたことはわかる。恵鎮上人が『太平記』の編纂にもかかわったという証言もあるが、そのことについては、機会を見て論じるつもりである。)

 恵鎮上人が天皇の御命令を承って、鎌倉に出発しようとしていた時に、尊氏のもとから細川和氏が尊氏の書状をもってやってきた。書状の中で尊氏は自分が朝廷に対してあげた功績を列挙し、義貞が一門のために私欲をむさぼっていると述べて、義貞を追討することを求めていた。この書状がまだ重臣による内覧を経ていないうちに、義貞がうわさを聞きつけて、尊氏こそが関東で勝手にふるまっており、なかんずく護良親王を殺害した罪は重いと、彼の討伐を求める書状を上奏した。

 そこで朝廷では公卿による詮議の場を設けて議論したが、何か言うと後が怖いことになる雰囲気で誰も何も言いだそうとしない。その中で、すでに何度か登場してきた坊門清忠が護良親王殺害の一件が本当かどうかを見極めたうえで、結論を下すべきであると意見を述べ、この意見が採用された。坊門清忠というのは、平安時代に藤原道長と対立した伊周の弟の隆家の子孫である。以前、この血統からは歴史上思いがけない役割を演じている人物が出ていると書いたことがあるが、清忠も例外ではない。

 そうこうするうちに鎌倉から、護良親王の身辺のお世話をしていた南の御方(持明院中納言保藤の娘)が上洛してきて、親王が殺害された時の様子をありのままに申し上げたので、天皇はけしからぬ振舞いであるとお怒りになり、さらに尊氏が四国、九州の武士たちに将軍として軍勢催促の文書を発行していることが分かって、もはや尊氏の反逆は疑いもないと決まり、尊良親王を東国の管領に任じ、新田義貞を大将軍と定めて、東国に討伐に下るよう命じた。

 鎌倉幕府の滅亡後、兵火もようやく収まって平和が回復される兆しが見えてきたところに、再びこの戦いに諸国の武士たちが動員されることになったのはどういうわけであろうかと、人々は落ち着かない気持ちに駆られたのであった。

 実は尊氏、義貞の書状はかなり長いのだが、要点だけを述べた。この個所だけでなく、今回は、かなり先を急いでいる。ともに八幡太郎義家の子孫であり、鎌倉幕府を倒すためにともに戦った義貞と尊氏が、次第次第に対立するようになり、ついに敵味方に分かれて戦うことになる。その戦いの帰趨はどうなるか…また次回以降に。
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