『太平記』(121)

8月28日(日)雨が降ったりやんだり

 建武2年(1335年)7月、北条高時の次男時行が信濃で、一族の名越時兼が北国で挙兵した。時行の軍は鎌倉に迫り、その大軍に対抗できないと判断した足利直義は鎌倉から引き揚げて東海道を西へと逃走した。その際、淵野辺甲斐守に命じて、土牢に監禁していた護良親王を殺害した。時行蜂起の知らせを受けた朝廷では、足利高氏に追討を命じた。征夷将軍と関東管領の職を望む尊氏に、後醍醐天皇は関東管領のみを許し、またご自分の名の一字を許して尊氏の名を与えられた。(征夷将軍は成良親王がすでに任じられていたので、尊氏には出発後、征討将軍の号が授けられた。また、後醍醐天皇が「尊」の字を与えたのは、元弘3年(1333年)8月というのが史実である。)

 関東8か国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)の土地と住民とを支配する職である管領に任じてほしいという要求が差し支えなしとされ、将軍のことは今後の戦功次第であると天皇からの約束を得たので、尊氏はすぐに関東へと向かった。まず、一族の吉良兵衛佐満義を派遣し、自分自身は5日ほど遅れて出発した。都を出た時に率いていた軍勢はわずか500騎ほどであったが、近江、美濃、尾張、三河、遠江の武士たちが加わって、駿河の国に到着した時には3万余騎となり、直義が率いていた2万余騎と合わせて5万余騎、矢矧の宿からまた鎌倉へと向かった。(この後の記事を参考にすると、近江から尊氏の盟友佐々木道誉が、三河で足利一族の仁木・細川が加わったと考えられる。高氏が直義と合流したの三河の矢矧の宿のはずであるから、その後さらに遠江、駿河で合流してきた武士たちが少なくなかったようである。なお、後醍醐天皇が尊氏の関東管領の申し出を承諾されたのは、新田義貞も関東を本拠としていることを考えると、軽率な措置であったことが、その後の経緯からわかる。)

 この動向を聞きつけて、相模次郎時行は源氏(足利軍)は非常に大勢だということなので、待ち戦をして、敵に気勢で圧倒されては勝てないだろう。先手を打った方が相手を負かすのに有利であると判断して、自分は鎌倉にいることにしたが、一族の名越式部大夫(というだけで名前はわからない)を大将として、東海道、東山(江戸時代の中山)道に軍を進めようとする。その軍勢は3万余騎、8月3日に鎌倉を出発しようとする夜に、突然強い風が吹き、家々の間を吹き抜けていたので、鎌倉の大仏の近くに露営していた武士たちが、この強風を逃れようとして大仏殿の中に逃げ入り、息をひそめて嵐が通り過ぎるのを待っていたところ、大仏殿が倒壊して、中にいた武士500人余りが1人も残らず押し潰されて命を失った。(現在、鎌倉の大仏は露座の大仏として知られるが、もともとは大仏殿があったのである。)

 戦場に赴く門出に当たって、このような天災にであった。この戦はうまくいかないだろうとひそかにささやくものもいたが、そのままでいるはずにもいかず、改めて日程を定めて、名越式部大夫は鎌倉を出発し、兵馬を急がせて、8月7日には前陣が現在の静岡県の掛川市と島田市の間にある峠である佐夜の中山を越えた。

 尊氏はこの情報を得て、武宣王(武成王というのが正しいそうである。周の武王を助けて殷を滅ぼした太公望呂尚が唐の時代にこのような追号を受けた)の兵法書である『六韜』に「敵長途を経て来たらば討て」(第2分冊、337ページ)と書いてあるといい、同じ8月8日の早朝から平家(北条方)の軍勢に猛攻を仕掛けた。それぞれ前線で戦う兵を入れ替えながら、1日中戦闘を続けたが、北条方に裏切る兵が出てきて、形勢が足利方に傾き、北条方は現在の湖西市新居町に当たる橋本の陣から退いて、佐夜の中山で支えようとした。

 足利方の先鋒を務めるのは足利一族の仁木、細川の人々、彼らが勇敢に戦えば、北条方の中心になっているのは、時行を鎌倉から救い出した諏訪頼重で、これまた勇気を励まして戦場に臨む。しかし、時の運というものであろうか、北条方はこの戦いでも敗れて、箱根の水飲の峠(三島市の山中新田のあたり)へと後退した。

 箱根の山は東海道一の難所なので、足利方もそう簡単には攻められないだろうと思っていたところ、佐々木道誉(赤松貞範とする本もある)の率いる軍勢が険しい山道にもひるまず、息も継がせず攻め立てて、北条方を切り崩したので、北条方はついに大崩(元箱根)まで退却する。北条方の有力武将であった清久山城守は引き返して応戦したが、北条方の兵に囲まれ、腹を切る余裕すらないままに生け捕りにされ、家来たちは皆討たれてしまった。

 道中数度の合戦に連敗したが、北条方の軍勢はなお士気は衰えず、相模川を渡って、川の東岸に陣を構えた。折から、秋の大雨が降り続き、川の水量が増していたので、足利勢もそう簡単には渡れないだろうと北条方は少し油断して、負傷者を手当てしたり、馬を休ませたりして、陣営を立て直そうとしているところに、夜に入って、尊氏の執事の高師直の弟師泰が上流の浅瀬を渡り、佐々木道誉と長井時春が下流の浅瀬を渡って、北条方の後ろに回り、東西に分かれて、同時に鬨の声を上げる。北条方は、前後の敵に囲まれて、かなわないと判断したのか、一戦も交えずに、鎌倉を目指して逃げかえるが、鎌倉への入り口である腰越で軍勢を引き返して応戦したものの、ここでも敗れ、有力な武将の1人であった蘆名盛員も戦死した。

 遠江の橋下、佐夜の中山、江尻(静岡市清水区江尻)、高橋、箱根、相模川、片瀬、腰越、十間坂(茅ヶ崎市十間坂)、酒屋(小田原市酒匂)と17度の戦闘に、もともと2万余騎であった北条方の兵は、300余騎にまで減っていたので、諏訪頼重をはじめ、主だった大名43人が大御堂(鎌倉市雪ノ下に合った勝長寿院、源頼朝が父義朝の供養のために建立した寺)の中に入り込み、皆自害して、先代北条氏の滅亡の跡地にその名を残したのであった。その死骸を見ると、皆顔の皮をはいで、誰が誰かということが分からないようになって、見分けがつかなかったので、相模次郎時行もこの中にいるだろうと、その知らせを聞いて悲しまない人はいなかった。(実は、時行はまたもや逃げ出して、各地に身をひそめながら、再起を図り、『太平記』に再び登場することになる。)

 三浦介入道(時繼)だけはどうやって逃げたのかはわからないが、尾張の国へ落ち延びて、船から上がったところを熱田大宮司(熱田神宮の神主、藤原昌能)が生け捕って京都に送ったので、六条河原で首を斬られた。(熱田大宮司の家柄は、源頼朝の母親の実家であり、そのことからもこの地で強い勢力を持ち続けていたことが分かる。頼朝挙兵の時に合流しようとして雨のために遮られた三浦一族の子孫が、熱田大宮司に生け捕られたというのは歴史の皮肉である。)

 北条氏の再興の企ての機会が熟していなかったのか、あるいは企て自体が天命に違うものであったのか、名越時兼が3万余騎を率いて京都に攻め上ろうとした企ても、越前と加賀の境界の大聖寺(石川県加賀市大聖寺)というところで、土地の武士たちのわずかな軍勢に敗れて、失敗したのであった。

 時行が関東で亡び、時兼が北国で戦死したことにより、北条一門のものは、姿を変えて、身を隠したりするものはまだいたが、再起の望みが絶たれたことを自覚しないわけにはいかなかった。北条一門の恩を受けていた人々も、こうなっては、気持ちを切り替えて、足利尊氏に臣従しようというものが多くなった。さればこそ、尊氏の勢威が自然に重くなって、公家一統の世から、また武家の名分が重んじられる世になった。

 こうして中先代の乱を平定したことで、足利尊氏の勢威が急速に大きくなったと述べて、第13巻は終わっている。先代の北条氏、当代の足利氏に対して、時行を中先代(『梅松論』には「廿日先代」という言い方もすると記されている)というのである。尊氏が5万余騎の軍勢を集めたところで、時行を兵力の点で上回っていただけでなく、数が少ないので、先制攻撃をかけようと勇み立つ時行に対して、相手が急いで攻め寄せてきて、疲れているところをたたこうと計略を練る尊氏という武将としての戦術の立て方の優劣も勝敗に影響しているように思われる。北条方にはしっかりとした作戦を立て、指揮を執ることのできる武将がいなかったと『梅松論』が論じているのは、妥当な見解である。『梅松論』には尊氏が、北条方の残党に寛大な措置をとったと記されている。このあたりも彼の勢威を大きくした一因であろう。 
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