『太平記』(120)

8月23日(火)曇り

 建武2年(1335年)7月、北条高時の次男時行が信濃で、名越(北条)時兼が北国で挙兵した。鎌倉にいた足利直義は、時行の大軍を防ぐことができず、7月26日に鎌倉から退却して西に向かった。その際、部下の淵野辺甲斐守に命じて、土牢に監禁していた護良親王を殺害した。

 足利直義は、鎌倉を脱出して京都に向かおうとしたが、気にかかるのはその際に難所として知られる場所を通らなければならないことで、まず頭に浮かんだのが駿河国入江庄(静岡市清水区入江)である。もし、北条時行に味方する武士たちがここで道を防いでいると、大変なことになると直義の率いる士卒は皆これを危ぶんだのであった。そこで、この入江庄の地頭である入江左衛門春倫(はるとも)のもとに、使者を送り、味方として協力してほしい旨を伝えた。
 春倫の一族の中でも、北条氏が再興の時節がやってきたと判断していた者たちは、ここで直義を打ち取って、北条時行のもとにはせ参じようと意見を述べたが、春倫はつくづくと思案して、「天下の落ち着く先は、愚かな我々の知るべきところではない。ただ、義の向かうところを考えると、入江庄はもともと得宗領であったものを、朝廷の恩顧により我々の所領として下され、この2,3年の間というもの、一族を豊かに守り育てることができた。我々はもともとの天子の恩に加えてさらに恩を受けている。今、この時、宮方の運が傾いた弱みに乗じて、不義の振る舞いをするという道義に合わぬことがどうしてできようか」と、さっそく春倫自ら直義を迎えに出かけた。これには直義も大いに喜んで、さっそく彼らも合流させ、三河の国の矢矧(やはぎ)の宿に陣を取り、ここでしばらく、疲弊した馬を休ませ、京都に早馬を立てて急を知らせた。(入江氏はもともと得宗の被官であったから、時行に味方するという選択肢もあったのだが、春倫は建武の新政権により入江庄が自分たちの所領になったということの方を重んじた。ご本人は、「義」を重んじているといっているが、客観的に見れば、利に従っているようにも見える。矢矧宿は現在の愛知県岡崎市矢作町、矢作川沿いにあった宿場で、鎌倉時代に守護所が置かれ、足利氏が三河守護だった関係で、一帯には多くの一族が住んでいた。直義がここを反攻の足掛かりとしようとしたのは、ごく当然の判断であったと思われる。)

 この知らせを受けて、京都では公卿たちが合議を行い、急いで足利尊氏を討伐のために派遣することに決まった。そこで勅使を尊氏のもとに派遣して、この旨を伝えた(尊氏は、本文で「宰相」(=参議)と呼ばれていることからすると、公卿たちの合議に参加できるはずなのだが、どうも加わっていなかったらしい)。
 尊氏が勅使にこたえて言うには、建武の新政権が樹立されるにあたって、彼が他の武士たちに影響力を発揮して朝廷方に引き入れた功績は大きい。東国に下るにあたり、できれば征夷将軍の官を授けてほしい。征夷将軍は武士の家柄である源氏と平家のものが軍国によって就任してきた例が多い。「この一事殊に朝のため、家のため、望み深きところなり」(第2分冊、334ページ、将軍に就任するということは、特に朝廷のため、我が家のため、特に深く望むところです)という。
 さらに戦闘の後で軍功を都に報告して判断を待っていたのでは時間がかかってしまうので、暫定的に関東8か国の管領を許していただき、賞罰をその場で行うことを認めててほしい。この2つの御願いを聞き入れていただくのでなければ、関東の討伐は他の武将に任せてほしいというのである。

 征夷将軍への任官、関東管領という2件は、この後天下が乱れる発端になる重大事であったので、天皇もよくよくお考えになるべきであったのに、尊氏が申請したとおりに、簡単に承諾されてしまった。(歴史的事実としては、両方とも勅許をえられないまま、尊氏は出発したというのが真相である。) 「征夷将軍のことは、関東平定の成否に依ることにしよう。関東8か国の管領のことは、問題ない」とお考えになって綸旨を下された。これだけでなく、もったいないことであるが、天皇の尊治というお名前の一字を高氏に与え、尊氏と名乗らせたのであった。(史実では、元弘3年(1333年)8月のことである。吉川英治の『私本太平記』が、この件をめぐり『太平記』ではなく、史実の方に従っていることも注目しておこう。)
 すでに何度も援用している森茂暁『太平記の群像』には、この間の事情をめぐり、「翌8月、尊氏は反乱鎮定のための下向を決意し、征夷大将軍・惣追捕使の職を後醍醐に要求するが許されず、かわりに征東将軍に補された。その様子は『神皇正統記』に記されている。
 高氏は申うけて、東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに惣追捕使を望みけれど、征東将軍になされて、悉くはゆるされず。」
(森、角川文庫、126ページ)と記されている。征夷将軍として既に成良親王が直義とともに鎌倉に派遣されていたのだから、尊氏の要求はかなり横暴なものであったと考えられなくもない。)
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