ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(33-2)

8月22日(月)台風の通過で風雨強し。午後になって、弱まったが、曇り空が続く。

 1300年4月13日。煉獄山を登って、その頂上にある地上楽園に達した(第28歌)ダンテはベアトリーチェに出会い、彼が神の道から外れていたことを責められるが(第30歌)、己自身の罪を悔いて気を失っているうちに地上楽園で最初に会った貴婦人により地上楽園を流れるレーテ川に浸され、地上における罪を忘れるその水を飲まされた(第31歌)。神の真理を体現するベアトリーチェの素顔を見ることができたダンテは、彼女から、これから彼の目の前に出現するキリスト教とその教会の運命を示す幻をよく見て、地上の人々に伝えるように言い渡される。世俗化し腐敗したローマ教会は、フランス国王により教皇がアヴィニョンに連れ去れるという悲惨な運命にさらされている(第32歌)。この運命を嘆き悲しみながらもベアトリーチェは1人の<五百十五>(515をラテン数字化して並べ替えるとDVXとなり、これはラテン語で「指導者」ということである)が現れて、教会の敵を滅ぼすであろうと予言する。そして善悪を知る知恵の木が普通の木とは逆に立っていて、誰もこの木に登れないようになっているのは、神の正義が人間を含む他の何物からも干渉されてはならないことを意味しているという。これらのこともまた地上の人々に伝えるべきことである。(第33歌前半)

 ダンテは、次のようにベアトリーチェに応える。
…「印章を受ければ
象られた形を変えることのない蝋のごとく、
あなたから今やわが頭脳は印を捺されました。

しかし待ち望んだあなたの言葉は
私の視界のはるか上空を飛翔し、
追いかけようとするほどに見失われてしまうのはなぜなのでしょうか」。
(493-494ページ) ベアトリーチェの言葉はよく覚えたが、その言葉は理解しようとすればするほどわからなくなるというのである。それに対してベアトリーチェは、それはダンテの学んだ哲学(おそらくラテン・アヴェロエス主義であろうと考えられている)が、神の意志、すなわち真理から外れているのを理解させるためであると答えた。

 ダンテは
…「私には
かつて私があなたから遠ざかってしまった記憶などなく、
そのことで自らをとがめるような意識もないのですが」。
(494ページ)というが、ベアトリーチェは、いましがた彼がレーテの忘却の水を飲んだことを思い出すように言う。
そして煙によって火の存在が導かれるように
その忘却は、他に向いていたあなたの願望に
罪があったことをはっきり示しています。
(495ページ)と言い切る。

太陽はひときわ烈しく輝き、ひときわゆっくりとした足取りで、
見る場所が異なるに従いあちこちに場所を変える
南中線にさしかかっていた。
(496ページ) ベアトリーチェとともに天上から降臨してきて、この33歌のはじめの方で、彼女から先に行くようにと言われて、先の方を進んでいた7人の貴婦人たちが
涼しい木陰との境で立ち止まった。
それはまるで山々の黒い枝に茂る緑の葉の下、
冷たい流れの上にある影のようだった。

彼女たちの前でユーフラテス川とティグリス川が
一つの泉から湧き出て、そしてまるで友人達のように
別れ難そうにしながら離れていくのを私は見ているように思った。
(496ページ) 原基晶さんは傍注で、ボエティウスが『哲学の慰め』の中で、ティグリス川とユーフラテス川は同一の泉から湧き出ていると書いていると指摘する。ボエティウス(Boethius, 480-524)はローマの哲学者で、ダンテが尊敬する人物の1人であり、ダンテが「中世最後の人」と呼ばれるのと同じように、「古代最後の人」と呼ばれる。
 なお、『創世記』には「エデンから1つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで別れて、4つの川となっていた。…第3の川はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第4の川はユーフラテスであった。」(新共同訳、創世記2.10,14) とある。ここで「アシュル」はアッシリアのことであろう。本当のところ、ティグリスとユーフラテスは下流で合流して一つの川になっている。(エデンの園はこれらの川の下流域にある肥沃な土地がモデルになっているという説もある。)

 ダンテはベアトリーチェに泉から流れ出している川について聞くと、彼女は、マテルデにたずねなさいという。地上楽園でダンテがはじめに出会った貴婦人の名はマテルデといったのである。マテルデは、川の名については一度説明した(28歌)はずだが、なぜ忘れてしまったのかと不思議がり、ベアトリーチェが、おそらくほかのことに気を取られて失念したのであろうとかばう。そして、その水を飲むと地上における罪を忘れるレーテの川と対をなす、善を記憶するエウノエの川の水をダンテに飲ませるように言う。マテルではダンテの手を引いて進み、またスタティウスにもついてくるように言う。こうして、エウノエの川の水を飲んだことで、ダンテの浄罪は完成する。

私はいとも聖なる波間から
新しい葉で新たに飾られた
新しい草のように生まれ変わって戻ってきた、

無垢になり、昇る構えができたのだ、星々を目指して。
(499ページ)
 こうして、『煉獄篇』は完結し、いよいよ『天国篇』33歌に続くことになる。参考のために、山川丙三郎(岩波文庫)と壽岳文章(集英社文庫)による、この最後の4行の翻訳を紹介しておこう。

さていと聖なる浪より歸れば、我はあたかも若葉のいでて新たになれる若木のごとく、すべてあらたまり
清くして、諸々の星にいたるにふさはしかりき
(岩波文庫版、212ページ)

私は、こよなく聖なる浪から出てきた、新しい葉をつけ、すっかり衣がえした新しい樹々をさながらに、よみがえり、
身を清め、いざ登るべく、かの星々へ。
(集英社文庫版、431ページ)
 罪を清めて生まれ変わったダンテが原さんの訳では「新しい草」にたとえられているのに対し、山川訳では「新たになれる若木」、壽岳訳では「新しい樹々」と樹木にたとえられているのは、気になるところである(今、すぐにというのは難しいので、近いうちに原文を調べて、確かめてみるつもりである。)

 原さんの訳(講談社学術文庫)には、「『煉獄篇』を読み終えて――カヴァルカンティ、ダンテ、ペトラルカ」という13世紀末から14世紀におけるイタリアの詩のなかでの「愛」の取り上げ方をめぐる論考が付録としてつけられている。紹介されているカヴァルカンティの詩は理念的すぎるように思うのだが、この時代の文学についてもっとよく知るためには、さらにほかの作品や論考も見ていかなければならないのではないかと思っているところである。

 さあ、来週からはいよいよ『天国篇』である。ベアトリーチェに導かれてダンテはどのような旅をするのであろうか。

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