『太平記』(119)

8月19日(金)晴れたり曇ったり、暑し。

 建武2年(1335年)7月、北条高時の次男時行が信濃で、北条一族の名越時兼が北国で挙兵した。鎌倉にいた足利直義は、時行の大軍に抗しきれず、7月26日に鎌倉を退却したが、その折、淵野辺甲斐守に命じて、土牢に監禁していた護良親王を殺害した。

 なぜ、淵野辺が刀の切っ先を口で銜えた大塔宮の首を、殺害を命じた直義のもとに持参せずに、近くの藪に捨てたのかについては、理由があったのである。

 昔、中国では周の天子のもとに諸侯がそれぞれの領地を統治していた時代のこと、長江の中流域にあった楚という国を治めていた諸侯は野心家で、武をもって天下を取ろうとして、家臣たちに戦闘の訓練をさせ、自らも武芸を好んだ。ある時、楚王の后が、暑いので、鉄の柱に寄り添って涼んでいたが、不思議な気持ちに襲われて、その後すぐに懐妊し、月満ちて、鉄の球を産み落とした。楚王はそれを不思議に思わず、おそらくこれは金鉄の精霊であろうと、干将という鍛冶を召しだして、この鉄を鍛えて名剣を作れと命じた。

 干将はこの鉄をもって、その妻である鏌鎁(ふつうは莫耶と書く)とともに呉山という山にこもり、そこの神聖な水で毎日身を清めながら、精魂込めてその鉄を3年間にわたって鍛え、雌雄二振りの剣を作り上げた。この件を楚王のもとに持ってゆく前に、鏌鎁が夫に向かって言うことには、この二振りの剣は、精霊がひとりでに宿って、そのままでも怨敵を滅ぼすはずの剣です。私が今、胎内に宿している子どもは、必ず強くたくましい勇者になるはずです。それで、1振りの剣を楚王に奉っても、もう1振りの剣は隠して、私が生むはずの子どものものにしてください。
 干将は妻のこの申し出にしたがって、雄剣ひと振りを楚王に献上し、雌剣をまだ見ぬ我が子のために隠しておいた。

 楚王は、献上された雄剣を見ると、普通の剣ではなく、まことに精霊が宿っていることが分かるようで、刀身の焼き入れで生じた刃文が、ムカデの足が動くように見えたので、大いに喜んで、箱の中に大事にしまっておいた。ところが、箱の中にしまわれた剣は、いつも悲しげな声を上げる。不思議に思った楚王は家臣たちにその理由を聞くと、この剣はもともと雄と雌の二振りであったもので、相手の剣と一緒にいられないので、それを悲しんで泣いているのに違いありませんという。そこで、楚王は大いに怒って、干将を呼び出し、彼の首をはねて殺してしまった。

 その後、鏌鎁は男の子を生んだ。顔つき、体つきが尋常なものではなく、身長は1丈5尺(約メートル50センチ)、500人力という大変な力持ちである。顔の幅が3尺(約90センチ)あって、両方の眉の間が1尺(約30センチ)もあったので、人々は彼を眉間尺と呼んだ。彼が15歳になったときに、父親が書き残していた書付を見て、剣の隠し場所を探し当て、楚王を殺して父親の敵を討とうと旅だった。

 楚王の方でも眉間尺がいる限り、安心しているわけにはいかないと数万の軍勢を差し向けたが、眉間尺1人の力に圧倒されて、多くの死傷者を出して敗走する始末であった。

 そうこうするうちに、父親である干将の古い友人がやってきて、眉間尺に次のように述べた。自分はお前の父親と長年親友として付き合っていた。だから、お前と一緒に楚王を滅ぼそうと思う。お前がもし、父の敵を討ちたければ、持っている剣の先を3寸食い切って、口中に含んで死ぬのだ。私がお前の首を取って楚王に献じれば楚王は喜んでお前の首を見ようと売るだろう。そのときに口に含んだ剣の先を楚王に吹き付けて、彼の命を取るのだ。
 これを聞いて眉間尺は大いに喜び、剣の先を3寸食い切って口の中に含み、自分で自分の首を切って、男の前に差し出した。

 男は、眉間尺の首をもって、楚王のもとに出かけ、それを献上した。楚王は大いに喜んで、獄門にかけたのだが、3か月たってもその首は生きたままの様子で、目を見張り、歯を食いしばて、常に歯噛みをし続けている。それで楚王はこれを恐れて、近づくことをしなかった。そこで3本足の金属製の器である鼎の中に入れて、7日7晩に立てた。強く煮たてたので、首も少し弱ってきた様子で目を閉じたので、これなら大丈夫だろうと楚王が鼎のふたを開けて首を見たところ、眉間尺の首は口の中に含んでいた剣の先を楚王にばっと吹きかける。県の先が過たず楚王の首の骨を刺し抜き、楚王の首は体から離れて鼎の中に落ちた。
 楚王の首と眉間尺の首とは煮えたぎる湯の中で上になり下になり、食いあったが、ややもすると、楚王の首の方が優勢な様子であった。すると、眉間尺の首を持ってきた男が自分の首を切り落として、首を鼎の中に投げ入れる。男の首が眉間尺の首に加勢したので、楚王の首は2人の首に食いちぎられた。すると、眉間尺の首は「死んでから後、父の仇を討ったぞ」と叫び、彼を助けた男の首は「あの世で親友の恩に感謝するぞ」と叫んだのであった。そしてともに煮え爛れてなくなってしまった。

 この眉間尺が口に含んでいた剣は、燕の太子丹が秦王(後の始皇帝)の暗殺を企てた時に、刺客として派遣された荊軻が隠し持っていた匕首となったとか、その後、代々の皇帝に秘蔵されたが、南北朝時代の陳の時代になって、龍になって姿を消したとかいう話がつけ加えられている。

 淵野辺はこのような先例を知っていたから、刀の先を加えた護良親王の首をあえて、直義の目に入れようとしなかったのであると『太平記』の作者は記している。(実は、首を取らないで、護良親王を東北方面に逃がしたのだという言い伝えもあることは、前回にも書いた。) この後、護良親王の亡霊は様々な形で直義に襲いかかるが、それはその時に。
 また、眉間尺の説話は、『法苑珠林』巻27、『呉越春秋』、『捜神記』、『祖庭事苑』、『孝子伝』など中国の多くの書物に見える民間説話でもあり、日本にも古くから伝来して、『今昔物語集』(巻9)、『宝物集』、『曾我物語』などにもひかれているそうである。私は『捜神記』しか読んでいない。『今昔』『宝物集』も手元にあるので、探してみようと思う。既にお気づきの方もいらっしゃると思うのだが、魯迅の「鋳剣」という短編小説は、この説話に彼独自の解釈を加えたものである。

 『太平記』は中先代の乱のようにかなり緊迫した事態を描く際にも、このように長々と中国や日本の説話を挿入することがある。それぞれ、その時の気分で、詳しく取り上げたり、省略したりしてきたが、これからも同じように適当に取り扱っていくつもりである。
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