『太平記』(118)

8月12日(金)曇り後晴れ

 元弘3年(1333年)に鎌倉幕府は亡びたが、最後の得宗であった北条高時の弟である泰家と、高時の次男相模次郎時行は逃げ延びて、再起を図っていた。泰家は、ひそかに上洛して西園寺家に身を寄せていたが、建武2年(1335年)に、西園寺家の当主であった公宗は泰家と謀り、京都、関東、北国での蜂起の手はずを整えた。さらに後醍醐天皇を御遊にことよせて自邸に招いて、とらえようと企てたが、弟である公重の密告により陰謀が露見して斬られた。この年の7月に、信濃で時行が挙兵し、北国でも名越(北条)時兼が挙兵した。東国を鎮定すべく鎌倉に派遣されていた足利直義は、時行の大群に抵抗するのは無理であると判断し、7月26日に退却したが…。

 直義は、鎌倉を小袋坂方面から退却したが、そろそろ山内(山内=現在の建長寺の付近)を通り過ぎようとする辺りで、部下の淵野辺甲斐守を呼び寄せて次のように述べた:「味方の兵が足りないので、いったん鎌倉から退却するとはいっても、美濃、尾張、三河、遠江の軍勢を集めて、やがてまた鎌倉に責め戻り、相模次郎時行を滅ぼすであろうことは、踵を返すほどの時間もかからないであろう。そうはいっても、足利家のために邪魔になりそうな人物は、兵部卿親王(=護良親王)である。死罪にせよという天皇のお許しはないが、この際ついでに、殺害してしまおうと思う次第である。貴殿は急いで薬師堂谷に戻り、宮を殺してほしい」と下知を下す。原文では直義が、護良親王に対して敬語を使っているので、余計に不気味である。
 淵野辺は、JR東日本の横浜線で淵野辺という駅があるのでわかるが、相模原市の一部で、甲斐守はこのあたりに住んでいた武士である。余談であるが、横浜線で八王子に向かうと、長津田でいったん神奈川県に別れを告げ、東京都町田市に入る(東急の長津田操車場は長津田と言いながら、町田市の南成瀬にある)。成瀬、町田と東京都町田市の駅が続いて、その次はまた神奈川県相模原市の古渕という駅になり、その次が淵野辺である。矢部、相模原、橋本、相原までは神奈川県で、片倉からまた東京都になる。どうもややこしい。
 とにかく淵野辺は、かしこまって、直義の命令を承る。そして山内から主従7騎で、宮が幽閉されている薬師堂谷へと向かう。薬師堂谷(やくしどうのやつ)というのは現在の覚園寺から鎌倉宮の方へと、地図に書かれていないので、川の名前はわからないが、二階堂川の支流の小川の左右に広がって延びる谷(やつ)で、覚園寺のさらに北にある薬師堂がその名の起こりらしい。

 宮は、常に真っ暗な土牢の中で、昼夜の移り変わりもわからない状態のまま、燈火を頼りに、読経を続けられていた。淵野辺がお迎えに参ったという伝言を聞いて、庭に宮をお乗せするための輿を下したのをご覧になり(それが分かるのであれば、昼夜の別もわかるはずで、このあたりの記述には矛盾がある)、「お前は、私を殺すための使いにやってきたのであろう。そんなことくらいわかっているぞ」と淵野辺の太刀を奪おうと、走り寄る。(天台座主であったころに、武芸ばかりたしなんで、不思議な方だといわれていただけあって、ご自分の武勇には自信がおありなのである。) 淵野辺は、自分のもっていた太刀を取り直して、宮の膝のあたりを強く打つ。半年ばかり牢内で暮らしていたために、宮の足腰は弱っていて、そのために気持ちは勇み立っていても、体の方がいうことを聞かない。打つ備瀬にお倒れになって、起き上がろうとするのだが、そこに淵野辺が乗りかかって、腰の刀を抜き、宮の首を取ろうとする。宮は、首をすくめて淵野辺の刀の先をしっかりと銜えられる。こうして刀を奪おうという必死の抵抗である。淵野辺も剛勇の武士なので、刀を奪われてはならじと引き抜こうとして、両者が力の限りを尽くすうちに、刀の先が1寸ばかり折れてなくなってしまう。淵野辺はその刀を投げ捨てて、脇差の刀を抜いて、宮の胸元を2回突き刺す。宮がひるんだところを、その髪をつかんで、首をかき落とした。

 宮の首をつかんで、淵野辺は牢の前に走り出て、明るいところでその首を改めてみると、食い切った刀の先がまだ口の中にとどまって、宮の目は生きている人のように見えた。淵野辺はこれを見て、「思い当たることがある。このような首を宮が恨みに思っている人に見せない方がよさそうだ」といって、近くの藪の中に投げ捨てて帰って行った。

 宮のお世話をするために、京都から随行してきた南の御方と呼ばれる女性(持明院保藤の娘)は、このありさまを見て、そのあまりの恐ろしさと悲しさに、身もすくみ、手足も動かないという状態であったが、少し時間がたつとその気持ちも落ち着いてきたので、藪の中に捨てられた宮の首を取り上げてみると、まだ体温が残っており、目もとじないままで、生前のままのご様子をとどめていたので、これは夢ではないか、夢であるならば、冷めて現実に戻ってほしいと、泣き悲死んだのであった。遠くから様子を見守っていた理致光院の長老が、事態を知って、宮の葬礼を営んだのであった。南の御方は、出家して、事態を報告すべく、泣きながらも京都に戻っていったのであった。
 少し前に出てきた、日野名子といい、この南の御方といい、大変な修羅場を目撃することになり、気を失ったり、呆然としたりするが、そのあと、気持ちを取り直して、しっかりと生きていこうとする。そういう根は強い女性を描くことを、男性中心の軍記物語である『太平記』の作者がどのように感じていたかは興味あるところである。

 わずか28歳で不本意な殺され方をした護良親王の無念はどれほどのもとであったか、誰でも同情を禁じ得ないところである。そのことが、淵野辺が捨てた首が時間がたってもまだ生きているように思われたという記述に表されている。普通であれば、淵野辺は首をもって直義のもとに戻るはずなのに、近くの草むらに捨てたのは、思うところがあったからである。その思うところがあったというところに、この武士が粗野な田舎武士ではないことが現れており、おそらくはだからこそ、直義は彼に殺害を命じたのであろう。
 なお、淵野辺は実は親王を殺さずに、落ち延びさせたという伝説もあるそうである。また、彼が境川流域に住んでいた悪龍を退治したという伝説も残っており、それほど悪人だとは思われてこなかったのは、彼が大将の命令を忠実に守っただけであることと、この後すぐに戦死してしまったことの為であろう。この殺害事件で一番悪役にされたのは、命じた直義かというとそうでもなく、命じたわけではないのに、足利高氏ということになってしまう。とんだ貧乏くじである。
 護良親王の慰霊のために、明治になってからこの現場の付近に鎌倉宮が建立される。坂東三十三か所の第一番札所である杉本寺を参拝した際に、その近くを通ったことがあるのだが、お参りしたことはない。この連載を続けているうちに、少なくとも一度はお参りをしなければと思っている。(後醍醐天皇が北条氏の慰霊のために足利高氏に命じて建立させた宝戒寺も同様で、こちらも一度きちんと参拝するつもりである。) なお、杉本寺に出かけたところ、美智子さまが皇太子妃時代に、浩宮さま(当時)とこのお寺を訪問されたという写真が飾られていた。ということは、鎌倉宮も参拝されたのであろうか。ちょっと気になるところである。なお、杉本寺も『太平記』に登場することになるが、それはそのときに。

 
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