『太平記』(117)

8月9日(水)晴れ、暑し

 元弘3年(1333年)5月に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が都に戻られて、政治の中心が朝廷に一元化された。翌年、建武と改元され、後醍醐天皇の側近と倒幕に功績のあった武士たちを中心に新しい政治が進められようとしたが、戦乱による疲弊にもかかわらず、新政権の中枢にある人々は贅沢な生活を送り、新政権から疎んじられている武士たちの不満は高まっていた。
 北条家の最後の得宗であった高時の弟泰家は、ひそかに上洛して西園寺家に身を寄せていたが、その当主であった公宗と共謀して、京都、関東、北国での北条氏残党による蜂起の手はずを整えた。さらに紅葉狩りの御遊にことよせて後醍醐天皇を自分の邸である北山第に迎え、とらえようと計画したが、公宗の弟公重の密告により陰謀が露見して斬られた。公宗の北の方はその時懐妊中であったが、出産した赤子にまで追及が及んだのを、祖母である昭訓門院春日が歌を詠んで取り繕い、その子は実俊となって西園寺家を継ぐことになる。

 「今、天下一統に帰して、寰中(かんちゅう)無事なりと云へども朝敵の与党、なほ東国にありぬべければ、鎌倉に探題を一人置かでは悪(あ)しかりぬべしとて、当今(とうぎん)第八宮を、征夷将軍に成し奉つて、鎌倉にぞ置きまゐらせられける。足利左馬頭直義、その執権として東国の成敗を司る。法令皆旧を改めず。」(第2分冊、321ページ、今、天下は朝廷のもとに統一されて、畿内は無事であるとはいえ、北条氏の残党がまだ東国の方には残っているので、鎌倉に探題(=地方の政務・軍事を司る職)を1人置かないといけないだろうというので、後醍醐天皇の第8皇子、成良(なるよし)親王を征夷将軍として、鎌倉に駐在していただくこととなった。高氏の弟の足利直義が、その執権として東国の政務・軍事を司ることとなった。法令はすべて、鎌倉幕府時代のものを改めず使うこととした。)

 そうこうするうちに、西園寺公宗の陰謀が発覚して、関係者が処刑されたため、京都で挙兵しようと企てていた北条氏の残党たちは、皆、東国、あるいは北国に逃亡し、幕府再興というかねてからの念願をあくまで達成しようと考えていた。北国の大将である名越太郎時兼には、越中の野尻、井口、長沢、倉満の各家の武士たちが参集し、さらに、越中、能登、加賀の武士たちが加わって、ほどなく6,000余騎になった。

 高時の次男である相模次郎時行は、第10巻に亀寿という幼名で登場していた。幕府滅亡の際に諏訪三郎盛高に背負われて信州に落ち延びていたが、諏訪頼重、三浦時繼、若狭持明、蘆名盛員、那和政家、清久山城守、塩谷民部大夫、工藤四郎左衛門以下、主要な大名50人余りがその陣営に加わったので、伊豆、駿河、武蔵、相模、甲斐、信濃の武士たちは、この大将に従わない者はいないという様子であった。

 時行は、その軍勢5万騎を率いて、信濃で挙兵するとすぐさま、鎌倉に攻め寄せようとした。足利一族で、直義の妻の弟である渋川義季、下野の豪族である小山秀朝たちが武蔵の国に出陣して迎え撃とうとしたが、多勢に無勢で打ち破られ、渋川と小山はともに自害し、その軍勢は全滅したのであった。さらに新田四郎が上野の国蕪川(かぶらがわ、現在では鏑川と書いている)で防戦したが、衆寡敵せず、200人以上の兵を死なせて敗走した。

 その後、時行の軍はますます多くの兵を集め、三方から鎌倉へ押し寄せてきた。直義は敵の進撃が速いのと、味方の軍勢が少ないのを考えて、なまじっかここで戦っては、敵にさらに勢いをつけさせるだけであると、成良親王とともに、建武2年7月26日の朝早く、鎌倉を出て、東海道を西に落ちていった。

 西園寺公宗の陰謀未遂の余波で、東国では再び戦乱が起きた。この戦乱は、やがて全国に広がることになる。新政権に不満を持つ武士たちを糾合することに時行は成功したが、彼自身がまだ若いので、前途多難に思われる。対する直義は、兄の高氏が武人としての性格が強いのに対し、政治的な手腕に長けていたようで、鎌倉で腰を抜かして、なすところなく敗死した北条高時と比べても、このあたりの判断は冷静である。さらに直義は逃げるついでに、恐ろしいことをたくらむ。それは何か、というのはまた次回に。
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