『太平記』(116)

8月5日(金)晴れ、暑し

 鎌倉幕府の滅亡時に姿をくらましていた、北条泰家(高時の弟)は、ひそかに上洛して西園寺家に身を寄せていたが、鎌倉幕府との結びつきが強かった西園寺家の当主公宗は、泰家と計画をめぐらし、京都、関東、北国で幕府再興を図る蜂起の手はずを整えた。さらに御遊にことよせて後醍醐天皇を自邸(北山第)に迎えてとらえようと謀るが、弟公重の密告により陰謀が露見して斬られた。公宗の妻・名子は、流刑と決まった夫と別れを告げるために彼が捕らえられていた中院定平の屋敷に向かい、夫が殺害される一部始終を目撃して、泣く泣く、北山の屋敷に戻る。

 これまで邸内に大勢いた身分の低い侍や侍女たちは、どこへともなく逃げ去っていて、人の姿が見えないだけでなく、翠簾や几帳が引き落とされている。居間を見ると、興が向いた折に公宗が歌を詠んで書き留めた短冊があちこちに散らばっている。これも今は亡き夫の形見かと思うと、涙が沸いてくる。寝所を見れば夜具はそのままになっているが、枕を並べて寝た夫の姿はない。
 「庭には紅葉散り積もつて、風の気色(けしき)も冷(すさま)じきに、旧き梢の梟(ふくろう)の声、気疎(けうと)げに泣きたる暁の物寂しさ」(第2分冊、315ページ)、どうやってこれから耐えて住み続けるかと思っているところに、西園寺の邸は、公宗の弟の公重が引き継ぐことになったと青侍達が大勢やってきて、屋敷を占拠してしまったので、その不快さが夫との別れのつらさに加わって、北の方(名子)は仁和寺(右京区御室)の近くにあまり人が訪ねて来ないような家を見つけて移り住み、夫である公宗の百箇日に当たる日に無事出産、若君が誕生した。

 世が世であれば、大騒ぎしてお祝いするところであるのに、粗末な住まいで、乳母をつけることもできず、母親が自分で抱いて育てていた。生まれた子どもが少しずつ成長するにつれて今は亡き公宗に似てきたのを見て
 形見こそいまはあたなれこれなくは忘るるときもあらまし物を
(第2分冊、316ページ、あの人が残した形見が今は恨めしい。これがなければあの人を忘れるときもあろうものを。)という『古今和歌集』の歌が思い出されて、涙の種となった。

 このように夫を失った悲しみが消えず、赤ん坊を生んだばかりだというのに、中院中将定平のもとから使いが来て、お産のことについて内裏からお尋ねがあった。もし生まれたのが若君であれば、乳母に抱かせてこちらにいらっしゃってくださいと伝える。母親(=名子)は男の子が生まれたという噂がどこから伝わったのであろうか。嘆きながらもこの子を育て、大納言の忘れ形見として見るだけでなく、成人したならば僧にして、父の菩提をともらわせようと思っていたのに、まだ乳離れもしない赤ん坊のうちに、武士の手にかけてその命を奪うというのでは、この後何を頼りにして生きていけばよいのかと嘆き悲しむ。

 公宗の母で、亀山天皇(上皇)の妃昭訓門院(西園寺実兼の娘)に仕えた春日局が名子に付き添っていたが、泣きながらも、使いのものと会って、母親が懐妊していた折に大変なことが起きたためでしょうか、生まれ落ちてすぐに、亡くなりました。罪人の遺児なので、どのような措置を下されるのかと、上からの御咎めを恐れて隠しておいたのですが、私が嘘を言っているのではないという一言を物心にかけて申し上げましょうと、泣く泣く手紙をしたためる。その奥に
 偽りを糺の森に置く露の消えしにつけて濡るる袖かな
(第2分冊、317ページ、偽りをただすという名の糺の森の葉に置く露のように、子どもがはかなく亡くなってしまい、そのことにつけても袖が涙にぬれることだ。糺の森は、下鴨神社の森で、歌枕とされてきた。私が京大に入ってすぐのころ、下鴨に下宿していたので、糺の森という名前にはなじみがある。

 使いの者がこの手紙を持って帰ってきたので、定平は涙を抑えながら後醍醐天皇にこれを御覧に入れる。この一言に天皇もあわれと思召されたのであろうか、その後は遺児の追及は沙汰止みとなった。名子は喜びながらも、なお慎重に配慮しながら子どもを3年間秘密裏に育てた。建武4年(1337)に建武の乱がおきて、足利尊氏が将軍になると、この人は朝廷(北朝)に仕えて、西園寺の跡を継ぎ、北山大納言実俊となった。
 西園寺実俊(1335-89)は北朝成立後、3歳(満では2歳)で従5位の下に任じられ、康永3年(1344)に従3位で公卿の仲間入りをして、貞和5年(1349)に正3位権中納言となる。母親の名子が典侍(ないしのすけ)として宮中に出仕していたから、幼いうちはその周囲でよちよちしていたものと思われる。現代であれば中学生という年頃で中納言ということである。『太平記』の30巻以降に登場し、ここでは大納言と記されているが、最終的には右大臣となり、また武家執奏という朝廷と室町幕府の連絡調整の役割を務めた。

 朝廷の追及を歌で交わした昭訓門院春日の才知はなかなかのもので、あるいは定平も後醍醐天皇も子どもが生きているのには気づいていたが、歌に免じて追及をやめたのかもしれない。春日は大納言二条(藤原)為世の娘で、二条家は藤原定家の孫為氏が起こし、同じく孫の為経が起こした京極家とともに和歌の家として知られる。二条家は大覚寺統、京極家は持明院統に近づく傾向があったはずである。亀山天皇(上皇)は大覚寺統の天皇であり、西園寺家は両方に自分の娘たちを后妃として送り込んでいる。娘たちを高貴な家柄に嫁がせようとしている一方で、息子の嫁ということになると、和歌の家とか学者の家とか、実力派の貴族の家柄から迎えている。実俊の誕生・成長をめぐってはこの戦術が奏功したように思われる。さらに言うと、後伏見院の女御となり光厳天皇、光明天皇を生んだ西園寺寧子(1292-1357)の存在も忘れてはならない(いずれ彼女の出番が回ってくるはずである)。

 この後、作者は琵琶の名手であった公宗が北野神社に奉納した楽曲の音色を聞いて、この大納言の末路を予言した同じく琵琶の名手である藤原孝重の説話を取り上げる。奉納した楽曲の中に「玉樹」という曲があるが、これは中国で亡国の音楽とされてきたものであり、その中で不吉な音をことさらに強調して演奏するのはどうも不思議だと孝重は思ったが、ほどなく、公宗は陰謀に失敗して刑死してしまったという。
 公宗の陰謀は氷山の一角であり、建武の新政をめぐってわだかまっていた不満がこの事件をきっかけにあちこちで表面化する。その詳細は次回以降に。
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