『太平記』(115)

7月29日(木)晴れ、気温が高くなる。

 建武政権のもとでの失政をめぐり、天皇にしばしば諫言してきた万里小路藤房が建武2年(1335)3月の石清水行幸の供奉を最後の職務として出家・遁世を遂げた。故北条高時の弟である泰家は、鎌倉幕府滅亡時に東北に逃げた後、ひそかに都に上り、西園寺家に身を寄せていたが、藤房の出家は朝廷にとっては大凶であるが、幕府再興を目指すものにとっては好機であると、西園寺家の当主である公宗と謀り、京都、北国、関東での蜂起の手はずを整えた。さらに御遊にことよせて後醍醐天皇を自邸に迎え入れ、とらえようと計画していたが、弟公重の密告により陰謀が露見して、公宗とその家司である三善文衡入道が捕らえられた。

 大納言である公宗を、彼を逮捕した中院中将定平の宿所に一間四方の部屋をせまい牢屋のようにこしらえて、幽閉した。文衡入道の方は結城判官(親光)のもとに預け、夜となく昼となくあらゆる手を尽くして拷問すると、陰謀の一部始終を余すところなく白状したので、すぐにその当時刑場として使われていた六条河原に引き出して首をはねた。

 公宗を伯耆守(名和)長年に命令して、出雲国に配流することとなった。公卿たちの会議で判決が下り、明日は配流先に赴くことに決まったその夜に、中院定平から公宗の北の方に知らせが届いた。北の方(日野資名の娘名子)は秘かに車を急がせて、泣く泣く公宗のもとに赴く。しばらく警護に当たっている武士たちを遠ざけて、幽閉されている夫の姿を見ると、1間四方の部屋の中にクモの脚のように材木を交差させ厳重に打ちつけた中に、身を縮めて、起き臥しもできないような状態で涙に沈んでいたので、北の方も涙を流し、耐えきれない思い出いっぱいになった。大納言は、北の方を一目見るなり、涙にむせぶばかりで言葉も出ない。北の方はどうなさったのでしょうかと涙を流し、衣(絹)を頭からかぶって泣いている。ややしばらくたって、大納言はようやく涙を抑えながら次のように述べた。「私がこのように引き出してくれる人もない干潟の小舟のように、重い罪を問われるにつけても、そなたが懐妊の身であるときいているので、わたくしの身の上への心配かららどんなに心を悩まされ苦しんでいることかと、それだけがあの世への暗い道を行く際の気がかりになるだろうと思う。生まれる子がもし男子であれば、将来の望みを捨てないで、慈しみの心をもって育ててください。これはわが家(西園寺家)に伝えるところのものなので、会うことのなかった親の忘れ形見としてほしい」と上玄・石上・流泉・啄木という秘曲を書いた琵琶の譜を一帖、肌につけたお守りから取り出して、北の方に渡された。西園寺家は鎌倉時代から琵琶の家として重んじられてきたので、生まれてくるはずの子どもにも、その伝統を受け継いでほしいという気持ちが込められている。そして、そばにあった硯を引き寄せて、包み紙に、一首の歌を書き記された。
あはれなり日影待つ間の露の身に思ひをかくる瞿麦(なでしこ)の花
(第2分冊、313ページ、日の光に会うとすぐに消えてしまう露のようにはかない私の命だが、生まれてくるわが子(撫でし子=瞿麦)

 硯の水に涙が落ちて、薄墨で書かれた文字が一層ぼやけてはっきりしない。見るだけでも心は消え入りそうだが、これを最後の形見として涙とともに受け取って、北の方はいよいよ悲しみが増して、なかなか口を利くこともできず、ただ顔も上げずに泣き続けているだけである。

 そうこうするうちに、罪人を配所に護送する役人がやってきて、「今夜まず長年のもとに護送して、朝になったら配所に赴かせることにしよう」という。このため辺りは次第に騒がしくなったので、北の方は隠れて様子を窺うことになった。それにしてもこれからの公宗卿の有様、どうなることかと気がかりに思われて、透牆(すいがい=竹や板で隙間を少し開けて作った垣根)の中に紛れて見ていると、大納言の身柄を拘束しようと、伯耆守長年が、鎧・兜を身に漬けた者たち2・300人ほどを引き連れて、庭の上に並んでいた。「夜が遅くなりすぎている」と急いでいたので、大納言は縄取りに引かれて、中門へと出ていく。その有様を見ていた北の方の心のうちは、何とも言いようのないものだった。既に庭の中に運び込まれていた輿のすだれを掲げて乗ろうとしたときに、定平が長年に向かって『早』と言われたのを、長年は命を奪えという意味だと取り違えて、大納言に走りかかって、その鬢の髪をつかんで俯せに引き倒し。腰の刀を抜いて、その首をかき落とした。北の方はこれを見て思わず「あっ」と叫んで、透牆の中に倒れてしまった。このままにしておくと息を引き取ってしまわれそうに見えたので、世話をする女房達が車に助け乗せて、泣く泣く北山殿に帰ったのであった。

 流刑にされるはずだった思いがけないことで公宗は命を失う。ただし、史実はこれと違っていた可能性がある。森茂暁さんは『太平記の群像』の中で、「『太平記』巻13は、かなりのスペースをさいて、この陰謀の顛末と公宗の遺子実俊のことを書いている」(森、2013、98ページ)と書いているが、その「かなりのスペース」がどのようなものかを、今実感しているところである。まだ30歳にならないという若年で、かなり重い地位に就き、責任を負わされた名門の当主公宗と、「元来、学問をもって朝廷に仕える家で、多くの練達した文筆系吏僚を出した」(森、前掲、47ページ)日野家の出身である名子の組み合わせはいろいろなことを考えさせる。それだけでなく、名子は『竹むきが記』という日記を残した当時一流の才女であった。「公宗は皇統の分裂、一門の抗争のあおりを一身に受けて命を縮めた、まさに悲劇の人であった」(森、前掲、101ページ)と森さんは論評する。物語はこの後、公宗の遺子実俊の身の上をめぐって展開される。

 森さんによると、公宗の陰謀は『小槻匡遠(おづきただとお)記』という実務型下級公家の日記の建武2年(1335)6月22日の条に記されていて、そこでは西園寺公宗と日野資名・氏光父子が逮捕されたとことなどが書かれていて、「逮捕者の規模は決して小さくないから、この事件はかなりの根の深い広がりをもっていたものと考えられる」(森、前掲、98ページ)そうである。公家では西園寺季経は素早く逃げ出し、武士としてこの事件の首謀者の1人である北条泰家も姿を消している。もっともこちらは、その後、彼の生存を示す資料がないので、間もなく命を失ったものと考えられているようである。森茂暁『戦争の日本史8 南北朝の動乱」(吉川弘文館、2007)のこの事件についての記述もほとんど同じ、村井章介『日本の中世⑩ 分裂する王権と社会』(中央公論新社、2003)では「最後の関東申次だった西園寺公宗が、北条高時の遺族と結んで後伏見法皇を担ぎ出す策謀をめぐらし、建武2年8月処刑された」(村井、59ページ)と記されていて、事件の背後に後伏見法皇の存在を推測しているのは森さんと同じだが、事件の要約の際の重点の置き方に微妙な違いがあるように思われる。
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