村井章介『分裂から天下統一へ シリーズ日本中世史④』

7月26日(火)曇り、夕方になって雨が降り出す

 村井章介『分裂から統一へ シリーズ日本中世史④』(岩波新書)を読み終える。
 16世紀から17世紀にかけての、戦国時代の分裂から徳川時代の「天下泰平」への歴史的な動きを、東アジアに重点を置きながら、諸外国・諸地域との関係や海外交流に軸線を設定してとらえなおした書物である。このような視点を設定したのは、1つには文禄・慶長の役という16世紀最大の戦争がこの時期に戦われ、その理解のためには当時の世界情勢や国際関係を視野に入れる必要があること、戦国時代の日本の分裂状況が幕藩体制へと推移していく過程は同時代の世界の動きと連動したものであったことのためであるという。著者は、この時期の日本は世界から<銀>と<盗賊島>という2つのキーワードによって知られていたと述べ、外国人の目で見た日本、外国との交流を通してみた日本を強調しながら、この時代の歴史に新しい光を当てようとしている。また、北海道以北や独立の王国を形成していた沖縄の状況にも目を向けて、より総合的にこの問題をとらえようとしている。

 この書物は次のような構成をとっている:
第1章 戦国――自立する地域
 1 将軍家分裂と室町外交の終焉
 2 戦国大名と分国法
 3 琉球王国の盛衰
 4 アイヌと和人
第2章 銀と鉄砲とキリスト教
 1 後期倭寇と西国大名
 2 鉄砲伝来――「ヨーロッパ」の登場
 3 キリスト教と南蛮貿易
 4 石見銀山から見た世界史
第3章 天下統一から世界制覇へ
 1 織田信長の「天下」構想
 2 豊臣秀吉の国内「征伐」戦争
 3 「唐入り」への道
第4章 16世紀末の「大東亜戦争」
 1 文禄の役開戦と三国国割構想
 2 小西路線と加藤路線――日明講和交渉期
 3 矮小化された征服戦争――慶長の役
 4 倭城をめぐる交流と葛藤
第5章 江戸幕府と国際関係の再建
 1 対明復交への執着と挫折
 2 朱印船と唐人町・日本町
 3 生産力の開放、人口の急増
 4 「日本型華夷秩序」の創出

 今回は、第1章と第2章の概要を紹介し、多少の感想を述べることにする。
 第1章では、まず室町幕府のもとで進められていた明との勘合貿易が、将軍家の分裂・抗争や各地方の大名の強大化により、幕府のもとから離れて、大内氏と細川氏の間でその主導権が争われたのちに、大内氏の手に独占されるようになったが、その滅亡により日本と明の間の正式な外交・貿易関係が途絶えることになったことが述べられている。
 次に戦国時代の、特に東国の大名たちが自分たちの所領を支配する法的・経済的な制度を整備し、一種の地域政権を樹立していたことが論じられる。「この国家および国王が、自己完結的な発給文書体系と国法・法度をもち、独自の土地丈量=検地によって年貢収納と知行制度を実現し、有事には領内の全住民を動員しうる名分(「大途」の語で表現される)と体制を備えていた・・・これを、中近世ドイツの「領邦国家」になぞらえて「地域国家」と呼ぶことができよう」(26ページ)という。
 琉球は15世紀前半に「大交易時代」の繁栄を享受し、交易が下火になった15世紀後半には尚真王のもとで国内統治における最盛期を迎える。しかし倭人勢力、中国人密貿易商、ポルトガルの進出により、琉球は交易におけるその地位を失うことになる。このため琉球の地位は低下し、島津氏への従属を深めていくことになる。
 北海道には次第に和人が居住し、軍事拠点であり、物流の拠点である館を中心にアイヌとの交易に携わったが、暴利をむさぼろうとするその姿勢への反発が強まり、1456年にコシャマインの戦いが起きた。コシャマインはこの戦いで戦死したが、全体としてはアイヌの方が軍事的に優勢で、和人は渡島半島の南部に押し込められた。そのような和人の中で蠣崎氏が主導権を握った。江戸時代を通じて、北海道はまだ「日本の外」と考えられていた。

 第2章では、勘合貿易が廃絶した後、密貿易が公的な往来にとって代わり、物流の規模はむしろ増大したことが指摘される。この時期、明の海禁(民間人の私的な海外渡航の禁止)政策のほころびの中で、中国人を核に、その他の外国人が加わって、多種多様な民族が「後期倭寇」を形成し、各地の貿易港を結ぶネットワークを形成して、貿易と略奪を行っていた。西国の大名たちは倭寇と結びついて対外貿易に乗り出そうとしたが、あまり成功しなかった。
 15世紀以来、中国の特に江南地方で目覚ましい経済拡大が生じ、そのことが周辺に巨大な軍事勢力の台頭を促した。その代表的な存在が豊臣秀吉と清の太祖ヌルハチであった。(この2人については第4章で改めて論じられる。) アジアの側のこのような発展が、大航海時代のヨーロッパの進出と結びついて、日本にも影響を及ぼす。(鉄砲もキリスト教もヨーロッパ式の大型帆船ではなく、中国のジャンクで日本に運ばれたのだと著者は指摘する。)
 キリスト教と南蛮貿易をめぐる日本社会の対応は複雑であった。17世紀の初めに日本全体の銀産高は全世界の銀産の3分の1を占めたといわれ、石見銀山だけで世界の銀の15分の1を算出していた。銀の精錬技術について日本は朝鮮やその他の外国から学ぶところがあり、また銀は世界経済の中で大きな役割を果たした。

 著者はこの時代の日本の歴史におけるヨーロッパからの影響よりも、アジアの中での自生的な発展との関連性を重視すべきだと考えているようである。とすると、中国(と朝鮮)における生産と技術の変化が、日本における生産と技術の変化にどのようにかかわっているか、あるいは類似した発展の傾向を示しているかについての、より実証的な考察が必要ではないか。鉄砲が日本国内で急速に普及していった過程についての記述は興味深く、この調子でもっといろいろな考察を展開してよかったのではないかと思うのである。
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ファミリー ヒストリー

 興味深い本だが、読むのはちょっとどうしようかなという感じである。私があえてコメントするのは、この本のようなまとめの本のもとになる史実の一つが我が家のファミリーヒストリーとしてあるので、江戸時代初期の歴史理解の一助にしてもらえたらと思って紹介する次第である。(NHKの番組としてもあるくらいだから、他家の歴史でも興味深いのではと思う。)
 我が家の先祖が、近江から落ち延びて博多で紅粉屋という化粧品店を営んでいたとき立花宗茂にひいきにされて、彼が柳川の藩主となった際柳川に呼び寄せられたのだが、ここで、紅粉屋は単なる化粧品店ではなく、「上納金改方」という役目を与えられ、柳川一番の豪商になった。その財力から、元和8年(1622年)には有明海筑後川河口の33ヘクタールの干拓(これは今でも大川市に紅粉屋という地名が残っている。専用の郵便番号831-0044)、元和9年(1623年)にはカンボジアへの朱印船渡航(実際は暴風のため流されベトナム交址国になる)をし、帰朝した際には、「将軍秀忠に見察を説き、御紋付きの熨斗目拝領」、また「宗茂公の命により伽羅香25斤を秀忠公に貢じ」と伝わる。柳川古文書館学芸員の方によれば朱印状の写しが残っているとのことだが、この朱印状をもらうために老中土井利勝を通したようだが、その家来横田覺(角)左衛門の娘との結婚というおまけがついた。この横田氏は最近読んだ永積洋子『朱印船』によると、朱印状発行の実務に当たっていた人のようで、奉書船の時代にもこれに当たっていたことが書かれている。なお、朱印状をもらいに行った際、秀忠が能をやっていて、我が先祖後藤貞次は太鼓を打てたので、命じられて太鼓打ちを披露したとのことである。ここまで直に将軍に近づくというのは普通のことかなと思ってしまうが、朱印状発行はこの年14件、前年に発行とすればその年は6件(「国史大辞典」等による)ということだから、月に一度くらいのことで、お目通りもあったかとも思われる。さらに、藩主立花宗茂公は秀忠の御伽衆の一人だったということも関係したかと思われる。あまり長くなってはいけないのでこのくらいにしておく。

Re: ファミリー ヒストリー

 興味深いコメントを有難うございました。村井章介さんは海外との関係から日本の「中世」を研究している方で、江戸初期の対外交流は必ずしも専門ではないので、読むか、読まないかはご自分で判断してください。

 紅粉屋ということは、出羽の国(山形県)の紅花などを取り扱っていたということで、荷送りだけでなく、廻船の方も手掛けていたのではないでしょうか。日本海を通しての国内の交易での経験が、海外進出の足掛かりになったと推測できます。

 元和9年(1623年)の7月に秀忠は家光に将軍職を譲り、大御所になっていること、この時期中国では後金(後の清)の力が強くなって、明が危機に陥り、東南アジアでもオランダの進出など、動きが激しかったので、秀忠に「見察を説き」というのはかなりの緊張感を持ってのことであったと思われます。個人的に興味深かったのは、伽羅香25斤を献上ということで、ベトナムは現在でも沈香(の良質なものを伽羅という)の産地で、そのあたりは変わっていないことが確認できたことです。

 永積さんの『朱印船』は小生も読んだ記憶がありますが、内容は忘れてしまいました。ただ読むのと、自分に引き付けて読むのとの違いですね。

 詳しいコメントに対して、雑な回答で申し訳ありませんが、また、いろいろと教えていただければ幸いです。

紅粉屋について

 早速のお返しありがとうございます。興味を持っていただけて良かったと思いました。
 紅粉屋の件ですが、山形の紅花などを取り扱っていたはずで「廻船の方も手掛けていたのではないでしょうか。日本海を通しての国内の交易での経験が、海外進出の足掛かりになったと推測できます。」とのご見解、大変興味深いものがありました。多分そうなのでしょう。ただ、「紅粉屋」というのは屋号であって、一般名詞ではありません。
 「伽羅25斤」というのも、私はそこまで考えてはいませんでした。ご教示ありがとうございました。
 「見察を説き」の必然性もこういう本を読んでいると分かることなのでしょう。私はそこまで考えていませんでした。ありがとうございました。
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