『太平記』(114)

7月23日(土)曇り

 鎌倉幕府が亡びた後、都に戻られた後醍醐天皇を中心として、朝廷による政治が復活したが、失政が多く、この点をめぐっての諫言が容れられなかった万里小路藤房は、建武2年(1335年)3月の石清水八幡宮への行幸への供奉を最後の職務として出家・遁世した。鎌倉幕府の最後の得宗であった北条高塒の弟泰家は、ひそかに上洛して西園寺家に身を寄せていたが、西園寺家の当主であった公宗は泰家と謀り、鎌倉幕府の再興を目指して、京都、関東、北国での蜂起の手はずを整えた。さらに御遊にことよせて後醍醐天皇を自邸に迎え、湯殿に拵えた落とし穴を使って幽閉しようと計画した。御遊の前夜に天皇は神泉苑の竜女が行幸を取りやめるように勧める夢をご覧になったが、予定を変更されずにお出かけになった。

 西園寺の邸(現在の金閣寺のあるところ)までの道の途中でもあり、夢が気になるので、天皇は神泉苑に立ち寄られ、龍神に供え物をして祈られると、池の水が急に波立つ。風も吹いていないのに不思議なことだと思われて、しばらく神泉苑にとどまって思案にふけっていらっしゃると、西園寺公宗の弟の竹林院中納言公重が天皇の御許に駆け付けて、西園寺大納言公宗は陰謀を企てて、そのために天皇の臨幸を勧めたのだという情報が、ただ今、ある方面から手に入った。ここは御所に戻られ、西園寺一族の橋本中将季経(すえつね)、公宗の家司の三善春衡、文衡入道をお召しになって、詳しいことをお調べくださいと申し上げた。これをお聞きになった天皇は、前夜の夢のお告げ、池の波の様子、確かに何かわけがありそうだとお思いになり、御所にお戻りになられた。
 天皇は中院中将定平に結城判官親光、名和伯耆守長年を随行させて、西園寺公宗、橋本中将季経、文衡を召しとってくるように命じられる。中院定平は、かつて後醍醐天皇の身代わりとして花山院師賢が比叡山に上った際に随行、その後は赤松一族とともに六波羅攻めに功を挙げた公卿であり、結城親光、名和長年は天皇の信任の厚い武士(三木一草のうちの2人)であった。
 兄弟は他人の始まりというが、皇室が持明院統と大覚寺統に分かれて内訌を続けていたこの時代、兄弟で政治的に対立するという例は多かった(これまでも日野資名と資明が持明院統と鎌倉幕府を、その兄弟の資朝が後醍醐天皇を支持するという例があった。先回りして言うと、公宗の正室は日野資名の娘である)。

 天皇が派遣された使いの者が2,000余騎、南北から押し寄せて北山第を厳重に包囲した。公宗はまだ若かったが、さすがに名門の当主だけあり、陰謀が露見したことを悟っても、取り乱した様子はなく、かえって落ち着き払った様子である。しかし事情を知らない公宗の北の方、女房達、侍どもは慌てふためいて、走り回っている。季経はもともと機敏な人なので一人だけ脱け出して、裏山からどこへともなく姿を消してしまった。

 定平は、まず大納言(=公宗)に面会して、穏やかな口調でこの間の事情を説明し、釈明を求めると、公宗は涙を抑えて言うことに、私は不束者ではあるが、後醍醐天皇の亡くなられた中宮(=禧子)は私の祖父の姉妹であり、その縁もあって高い地位に就いてお引き立てをこうむってきた。これも天皇が慈悲深くお与えくださった恩恵なので、その後恩を深く感じているから、陰に隠れて裏切り、ご恩をいただいていながら天皇に弓を引くというような気持ちを抱いたことはない。よくよく考えてみると、西園寺家は何代かにわたって、他家よりも高い地位に就き、天皇の御寵愛を受けてきたので、清華家や名家の人々の中にはこれを嫉んで、ある事ない事言いふらして西園寺家を陥れようとする者がいるのではないかと思う。とは言うものの点が真実をご照覧あるならば、事実でない噂が長く天皇のお耳に入ることは決してないので、まずお召しにしたがって公卿列座の場に参り、犯した罪についてのご究明を仰ぐことにいたしましょう。 ただし、季経については今朝方既に行方をくらましておりますので、連行するには及ばないと思いますという。
 実際問題として、すでに述べたように、西園寺家は鎌倉幕府との密接な関係があり、鎌倉時代を通じて関東申次の役柄を代々世襲し、権勢をふるい、太政大臣に上るものも多く、また少なからぬ后妃を出してきた。ところが、後醍醐天皇の復位後の元弘3年5月に公宗は大納言の職を解かれ、8月には権大納言に還任したとは言うものの、政権の中枢からは遠ざけられていた。
 公宗の言葉の中の清華家というのは公家の家柄の一つで、摂政・関白の地位に就くことのできる摂関家に次ぐ。太政大臣を極官とし、大臣・大将を兼ねる家柄で、転法輪三条・今出川・大炊御門・花山院・徳大寺・西園寺・久我の7家であったが、後に醍醐・広幡の2家が加わった。公宗の言うところは、清華家の中では西園寺家が他家よりも優遇されてきたので、その妬みを買ったのではないかということである。清華家に続く家格が大臣家で太政大臣になることはできるが、近衛大将を兼ねることはできない。正親町、三条、三條西、中院の各家がこの家柄である。その次が羽林家で大納言まで昇進、近衛中将・少将を兼ねることができる家柄で、四辻・中山・飛鳥井・冷泉・六条・四条・山科などの諸家が属する。名家はその次で大納言まで昇進できるが、近衛中将・少将を兼ねることはできない。日野・広橋・唐橋などがこの家柄である。
 大臣家の出身である定平が、自分よりも家格の高い清華家の当主である西園寺公宗に対して穏やかな態度で接したということは、貴族の社会のしきたりとして当然のことである。(余計な話を書くと、近衛文麿が京都大学の学生であったころ、大学の近くに別荘を構えていた西園寺公望のもとを訪問したところ、当時すでに政界の有力者であった西園寺が近衛を上座に座らせて閣下と呼びかけたので、近衛の方がびっくりしたという話を読んだことがあるが、清華家の当主であった西園寺の摂関家の当主であった近衛への接し方としては当然のことである。)

 天皇の派遣された捜索隊は、さては季経を隠しおおせようとしているな、なんとしても探し出せと邸内を調べて回ったのだが、見つからず、捜索範囲を広げて付近の山までも調べて回ったが見つけ出すことができなかったので、公宗卿と文衡入道だけを逮捕して、夜中に都心へと戻ってきた。

 こうして西園寺公宗・北条泰家の企てたクーデターは未遂に終わるが、この事件はさらにその波紋を広げ、建武政権を揺るがすことになる。次回は、そこまで行かずに、公宗のその後の処遇や、残された家族の行方などを追うことになる。金閣寺には何度も出かけたのだが、そこが鎌倉時代に隆盛を極めた西園寺家の北山第の所在地であったことは忘れがちであった。宇治の平等院などもそうだが、史跡にはさらに古い歴史が潜んでいることが少なくない。『太平記』を読んでいると、そんなことにも気づかされるのである。 
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