『貧乏物語』と「新しき村」

7月20日(水)晴れたり曇ったり、夜になって雨が降り出す

 まだ、目を通していないのだが、最近、河上肇『貧乏物語』をさらに平易に書き直した版が講談社現代新書から発行されている。この書物は、当時の日本社会における貧富の差が顕著であることを指摘し、それが日本だけでなく国際的な問題であることを述べて、海外、特に英国における福祉国家政策について紹介したもので、社会主義についても紹介している。後にマルクス主義を信奉するようになった河上はマルクス主義の入門書として『第二貧乏物語』を著すが、第二次世界大戦終結後70年以上を経て、「社会主義」を標榜していた諸国が崩壊したり、「市場経済」に転換したりした一方で、日本を含む先進国の社会における貧富の差が拡大しているなどと言われている昨今、改めて第一『貧乏物語』の方に目を向けることは意味のあることであろう。

 この書物の書き出しで取り上げられているのが、1906年に英国で学校給食法が成立して、基礎学校(小学校)の児童に無償の給食を提供するようになったという話題である。これは英国が南アフリカをその支配下に置こうして起こしたボーア戦争(1899-1902)の際に、英国軍の兵士の健康状態と体力が劣悪であったために意外に苦戦したことから、労働者の健康状態を改善するために実施されたものである。シャーロック・ホームズの作者であるコナン・ドイルはボーア戦争の支持者であり、かつ、学校給食導入を叫ぶ一人であった。だから、学校給食が純粋に福祉のための施策であったともいえない。しかし、同機はともかく、客観的に見れば社会福祉を進める施策として機能していたことは否定できないだろう。

 河上は触れていないが、自由主義的な考え方から、この施策に反対する人は少なくなかった。その中でとくに有名なのが『法律と世論』の著者A.V.ダイシーである。彼は『法律と世論』第2版の序文で次のように述べている。「1870年の初等教育法は自由党員の仕事であった。また社会主義的と呼びうる思想に意識的には影響されていなかった保守党員の仕事でもあった。実際上、両親が子供の初等教育費を負担する必要を除いた1891年の教育法が、1870年の教育法を可決した政治家たちに賛成されたか否かは、疑惑を免れぬであろう。彼らが1906年の教育(給食)法を非難しただろうということは明白だ。飢えている小児に算術の基礎を教えようとする企図からは、たいして得るところがないことは、だれしも否定しえない。けれども、そのゆえに、地方当局がすべての空腹な小児に学校で食事を共有せねばならぬ、との結果は生じてこない。さらに、最初に小児を飢えしめ、次に納税者の費用でその小児に与えられる食事代を法律上当然支払うべきであるのに払いえないところの父が、1906年法により議員選挙権を依然として有するのは、道徳上一そう正しくないように思えるのである。父たる義務を最初に怠り、次いで国家を騙取せる人間が、なにゆえに完全な政治上の権利を有すべきであるかは、容易に応えられぬ問題である。」(A.V.ダイシー、清水金二郎訳『法律と世論』、法律文化社、1972,24-25ページ) 
 ダイシーは本文中でも「もし研究者が、イギリス国民の教育は、第19世紀初期の間は、決して国家事務でなかったということを一度会得するならば、その人はわが国現下の制度が、団体主義の増大した優越の記念碑であることを知るであろう。」(271ページ)と、教育は「私事」であるという自由主義的な考え方に対して、1870年の教育法による公立学校の設置、その後の義務教育制度の導入や、教育の無償化に見られる19世紀を通じ国家の教育への介入が増大してきた事態を批判的に述べている。ダイシーの怒りの火に油を注いだのは、本来学校教育とは別のものである食事の問題が公共の政策によって取り上げられたことである。子どもの養育は親の責任だというところから出発するダイシーの議論を、河上がどの程度まで視野に入れていたか、視野に入れていたとすれば、どのような評価を下しえていたか、興味あるところである。

 河上は英国をはじめとする諸外国の福祉国家的な政策に興味を示し、それは不十分、不正確な理解に基づき、日本の当時の現状にとって必ずしも適切なものではなかったかもしれないが、社会問題に関心を持つ多くの人々、特に若い学徒を引き付けた。さらに河上が福祉国家的な政策に飽き足らず、マルクス主義研究に没頭していく過程に共鳴する若者も少なくなかった。そういう若者たちの中に、東京の旧制高校からわざわざ京都大学に入学して河上の講義を聴こうとした若き日の近衛文麿や、石田英一郎の姿があった。(それどころか、若き日の周恩来も一時、京都大学に入学することを考えていたという。)

 ほぼ同時代に、河上とは全く別のところから政府の政策、あるいは社会運動によってではなく、個人個人の自発的な努力を通じて社会問題の解決を志したのが武者小路実篤の「新しき村」であった。河上がカペーやオーウェンの例を挙げてこのような理想社会建設の実験は失敗するだろうと述べ、両者の間に論争が展開された。その際に、武者小路が過去に失敗例があったとしても、その理由を調べて克服すればいいといったのは正論で、河上は知らなかったが、アメリカで作られた社会主義的なコロニーの中には、その後長く続いたものも少数ながら存在したのである。そして「新しき村」もまことに細々とではあるが、現在に至るまで続いている。

 しかしながら、「新しき村」の影響力はかなり限定的なものであることも確かであり、その意味では河上の方が正しかったともいえる。それ以上に私にとって気になるのは、武者小路が村を離れて執筆活動に専念し、その収益で村を支援し続けたといいながら、中国の美術についての一大コレクションを残し、また彼の死後に公園として利用されるようになった広い邸宅に住んでいたことである。彼が中国美術の収集において示した審美眼は尊敬に値するものであり(だから困るのだが)、公園も市民生活には必要なものであるが、それでもなんとなく納得がいかないところがある。

 納得がいかないといえば、昔々小林多喜二の『蟹工船』を山村聰が監督した映画を見ていたところ、登場する少年が社会主義に興味がある一方で、武者小路の「新しき村」にも関心を寄せているというくだりがあった。河上と武者小路の論争を知っていたので、対立する2つの思想・運動に同時に興味を持つのは、いかがなものかなどと思ってみていたのである。

 しかし年を取ってくると、人間がある思想に興味をもつとか、支持するようになるとかいうのは、人間的な好き嫌いや偶然の出会いに左右される部分の多い過程であり、あまり論理的なものではありえないことが分かってきた。だから対立する思想の両方に興味をもつ(そして行ったり来たりする)ことはありうるのだと、今では考えている。
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