嵐の前後

7月19日(火)晴れ、暑し

 ルネサンス・フランスを代表する文学作品であるラブレーの『第四の書 パンタグリュエル物語』の中に、主人公である巨人王子パンタグリュエルとその一行が航海を続けるうちに、大暴風雨に出会う有名な場面がある。この場面は18章から24章までというかなり長い分量を占めており、著者が何らかの寓意を込めてこのエピソードを語っていることを想像させる。

 パンタグリュエルが、パニュルジュ、ジャン修道士、エピステモンらの側近を連れて航海に乗り出したのは、『第三の書』から始まっているパニュルジュの結婚をめぐる議論に一向に決着がつかず、はるか遠いところにいるという徳利明神の託宣を得ようとするためである。

 航海の途中、一行は教会の公会議に赴く僧侶たちを乗せた輸送船に出会う。(この公会議が有名なトリエンテ=トレント公会議を指していることに、研究者の意見は一致しているそうである。) 大勢の高僧が乗船していることをパニュルジュはありがたがって多大の寄進をする。ところがパンタグリュエルは考え込んでいた。パンタグリュエルの態度を不審に思ったジャン修道士が尋ねかけた時に、船長から風向きが変わったという知らせが入る。

 カトリック教会の再生のために開かれる航海に赴く坊さんたちを有り難がっているパニュルジュは、おそらく会議の意味は理解していない。これに対しパンタグリュエルが何を考えていたかは語られていないが、おそらくは公会議の行く末に慎重な態度をとろうとしていること、教会の現状や将来についてもある種の危機感を感じていたことが推測できる。パンタグリュエルほどに思慮深くない、現実的なジャン修道士は、なぜパンタグリュエルが考え込んでいるかが分からないから質問する。坊さんたちの乗り込んだ船に対する三者三様の態度は、嵐が襲来した際に、さらにはっきりした分岐を見せる。

 暴風雨に出会って船が揺れだすと、パニュルジュは食べたものを吐き出し、甲板にうずくまって半死半生の体で、泣き叫ぶ。パンタグリュエルは船長の勧めによって船の舵を操り、ジャン修道士やその他の家臣たちも水夫を助けて働いていた。パニュルジュだけが甲板で泣きわめいている。18勝と19勝のかなりの部分が、パニュルジュの悲鳴を書き連ねている。

 パニュルジュのおびえた態度に対してジャン修道士はしっかりしろと言い聞かせるが、両者のやり取りが続く間に、嵐はますます激しくなる。21章になると遺言状について、神頼みについての議論が交わされる。22章に入ると、陸地が近づき、嵐も終わる気配が見えてくる。現金にも元気を取り戻したパニュルジュを、ジャン修道士は非難し続けるが、パンタグリュエルは「外の場合に健気に振舞いさえしていれば、この恐ろしい嵐危ない暴風雨の間に、奴が怖がったとしても、つまらぬ奴だなどとは毛ほどにも思わぬぞ」と受け入れる。この場合の、パニュルジュの態度はあまり褒められたものではないが、ジャン修道士のようにそれを非難するのではなく、彼が勇敢であった場合のことを思い出して、今回の怯懦を認めるパンタグリュエルの度量の広さに、ラブレーの真意を認めるべきであろう。

 嵐は自然の嵐だけではない。ラブレーの時代は宗教戦争の嵐の中にあった。時々勇敢であり、時々臆病であることによって、多くの人々が生き延びることができたのである。

 物語の少し前、『第二の書』でまだパンタグリュエルがフランス各地の大学を遍歴していたころの次のような経験が記されている:
 それからトゥルゥーズへきたが、そこでは、舞踏をしたり二束両刃の長剣を使うことが非常にうまくなった。しかし、これらの学生どもが、先生たちをまるで燻製鰊のように生きながら火焙りにしていたのを見て、ここに長居は無用と思い、こう言った。「桑原桑原、こんなお陀仏の仕方は真平御免だ。何しろこの俺は、生まれつきもう沢山だというほどに喉が渇いているのだから、これ以上からからほかほかにされなくてもよいぞ」と。(第二の書、第5章) 彼自身が認めているように、パンタグリュエルは生まれつき喉が渇いている⇒大酒飲みであるという設定である。

 トゥルゥーズはふつう、トゥールーズと表記されているのではないだろうか。この地の大学は1229年に創設され、16世紀においては特に法学部が優れていたそうである(パンタグリュエルは法律を勉強したことになっている)。この大学の気風はきわめて保守的で、宗教改革運動には敵対的であり、1532年にはこの大学の法学部のある教授がルター派の嫌疑をかけられて逮捕され、異端者として火刑に処せられるという事件があった。燻製鰊のように…という箇所は、この事件を踏まえたものと考えられる。ラブレーの知己の中にも、この町の不寛容な空気の犠牲となった人々がいた。頑迷な精神の持ち主たちが大勢で騒いでいる場面に出会ったら、三十六計逃げるにしくはないのである。
 ラブレーの信仰をめぐっては様々な説があるが、彼が師と仰いだエラスムスと同様に、教会の腐敗と形骸化した保守的なキリスト教神学には批判的であったことは確かである。しかもそのような批判をしながらも、カトリック側にとどまろうとするならば、おそらくカトリック教会の主流からも、プロテスタントの側からも攻撃を受けることになる。キリスト教をめぐる考え方だけではなく、修道会を出て医者になり、現世における享楽的な生活を賛美するかのような小説を書いたラブレーには、そのことによるうさん臭さも加わっていたに違いない。そういう自分の立場の危うさをよく自覚していたからこそ、彼は嵐の際におびえきって何もしなかったパニュルジュを切り捨てようとしないのである。

 トリエンテ公会議が開かれた時のローマ教皇は、スタンダールの小説『パルムの僧院』の主人公のモデルとされるパウロ(パウルス)Ⅲ世であった。スタンダールの小説のモデルになるぐらいだから、イタリア・ルネサンス爛熟期の策略や陰謀の渦巻いた時代の雰囲気をまだまだ強く身に着けていた人物のようである。ラブレーはこの教皇について、あまり好意的な記述を残していないが、さりとて人間的に魅力を感じていなかったともいえないのではなかろうか。本来世俗的な王侯として活躍すべき人が、宗教界の指導者になっている――それがあまり不思議に思われなかったという時代の話なのである。

(20年以上昔に書いた文章に少し手を加えたものである。ここで引用しているラブレーの翻訳は、すべて渡辺一夫によるものである。実は『神曲』についての連載が終わったら、次はラブレーを取り上げようと考えているのだが、『第四の書』のこの記事で取り上げた個所に到達するのは、いつのことになるだろうか?) 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR