『太平記』(113)

7月15日(金)雨、一時雷雨が激しかった。

 元弘4年(1334年)7月に改元があって、年号が建武と変わった。その頃、出雲の塩冶高貞のもとから龍馬が献上された。後醍醐天皇は吉兆として喜ばれたが、万里小路藤房は必ずしも吉兆ではないと建武政権の失政の数々を説いて、天皇に諫言した。諫言が容れられなかった藤房は建武2年3月の石清水八幡宮への行幸の供奉を最後の職務として出家・遁世した。

 元弘3年に、鎌倉幕府滅亡の際に自害した最後の得宗・北条高時の弟である北条泰家は、一族のほとんどが自害して果てた中で、自害したように見せかけて、ひそかに鎌倉から落ち延びて、しばらくは奥州に身を潜めていたが、人に見知られないように(もともと出家していたのを)俗人の姿に戻り、京都に上り、当時、正二位権大納言であった西園寺公宗を頼って、その屋敷に田舎侍が地方から出てきて召し使われているというように見せかけて、機会をうかがっていた。(泰家が鎌倉を脱出した次第は10巻の高時たちの自害の直前に記されている。泰家は高時が執権職を退いたときに、その後任として執権になるつもりだったのが、反対する者がいてなれなかったので、怒って出家していたのである。)

 なぜ西園寺家を頼ったかというと、承久の乱の勃発時に西園寺公経が鎌倉幕府に内通してその勝利に寄与したという経緯があり、その当時の鎌倉幕府の執権であった北条義時が「子孫七代まで西園寺殿を慿(たの)み申すべし」(第2分冊、305ページ)と言い残していたので、その後ずっと幕府は西園寺家を他の家とは違って特別扱いにしてきた。それで代々の天皇の后もその多くが西園寺家の出身であり(姞子が後嵯峨、公子が後深草、嬉子・瑛子が亀山、鏡子が伏見、禧子が後醍醐のそれぞれ后になった)、諸国で官に任じられるものも、半分は西園寺の一族であった。それで当主は代々太政大臣にまで昇任し、最高位を極めないものはなかった。これはひとえに北条が目をかけてくれたおかげであると思われたのか、何とか死んだ北条高塒の一族を取り立てて、再び天下の件を取らせ、自分は公家の執政として、天下を掌中に収めようと思われ、泰時を還俗させ(すでに還俗したと書いてあったのだが、繰り返されている)、刑部少輔時興と名を変えさせて傍に置き、明け暮れはただ謀反の計画を巡らしていた。

 ある夜、公宗の家司である三善文衡(ふんひら)が公宗の前にやってきて述べるには、「国の興亡を見るには、政治の善悪を見るのが一番よろしいといいます。政治の善悪を見るには、賢臣がどのように用いられているかを見るのが一番よろしいのです。昔の中国の例を見ると、殷の紂王を諫めた微子が去ったために殷は亡び、楚の項羽に仕えて功績をあげた范増が項羽に疑われて、官を辞し去っていたことで項羽は亡びました。今の朝廷を見ると、ただ藤房だけが見るべき賢臣であったのですが、いち早く滅亡を
予知して、隠遁の身となってしまいました。これは朝廷にとっては大凶ですが、西園寺家にとっては運の開けることであろうと思われます。急いで謀反の決心をなされれば、北条に仕えてきた生き残りが各地からはせ参じて、天下を覆すであろうことは、一日とかからないでしょう」と謀反を勧めたのであった。

 公宗も文衡の言い分をもっともだと思い、時興を京都の大将とし、畿内・近国の兵を集めた。そのおいで高時の次男である相模二郎時行を、関東の大将として(彼は諏訪盛高に護られて信濃に落ち延びていた)、甲斐・信濃・武蔵・相模の軍勢を率いさせ、名越太郎時兼を北国の大将として、越中・能登・加賀の軍勢を集めさせた。

 このように諸方の軍と示し合わせてから、京都の西の方から番匠(大工)たちを大勢集めて湯殿を建てさせた。(西園寺家の屋敷は、北山のその後金閣寺となった場所にあったので、西の方から大工を集めたのは当然のことであろう。) これは、後醍醐天皇が御遊のために臨幸された際に、唐の玄宗皇帝が楊貴妃とともに遊んだ華清宮の温泉になぞらえて、浴室での酒宴をお勧めし、浴室に落とし穴を仕掛けて陥れようとするたくらみからであった。このようにさまざまのはかりごとを巡らし、兵をそろえて、「北山の紅葉をご覧になるために、おいでください」と天皇に申し上げたので、さっそく日程を定められ、行幸の儀礼を準備されたのであった。

 すでに、「明日午の刻(正午頃)に、臨幸なさるであろう」と仰せ下されたその夜、天皇がしばらくまどろまれた際の夢に、赤い袴に濃い鼠色の二枚重ねの衣を着た女が一人やってきて、「前には虎狼が怒って待ち受け、後ろには熊と羆の獰猛なものがいます。明日の行幸を思いとどまりください」と申し上げる。天皇は、夢の中で、「お前はどこからきたものか」とお尋ねになったが、「神泉苑のあたりに、多年住んでいるものです」と申して、帰って行った。それをご覧になって、ほどなくして夢から覚めた。天皇は、怪しい夢のお告げであったと思召されたが、ここまでしっかりと予定を組んでしまった臨幸を、土壇場で取りやめにするのはどうかと思われたので、予定通り乗り物の輿を出して出発するように命じられたのである。

 後醍醐天皇の御夢に登場した女は、おそらくは第12巻に語られた東寺の弘法大師と西寺の守敏の法力比べの説話の中で、弘法大師が雨を降らせるために天竺の無熱池から呼び寄せ、そのまま神泉苑に住み着いた善女龍王であろう。先祖代々の鎌倉幕府との深い結びつきから西園寺公宗が北条氏の残党と手を結んで建武新政権に対するクーデターを計画しているのは、新政権にとって一つの危機であるが、どうも危機は一つにとどまらないらしい。鎌倉時代に戻ろうとする動きがあれば、新しい武士の政権を作ろうという動きもあるかもしれない。『太平記』の世界は再び兵乱の連続になりそうな気配も見せている。 
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