水村美苗『増補 日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で」(2)

7月12日(火)晴れ

 アメリカ中西部にあるアイオワ大学で開かれたIWP(国際創作プログラム)に日本からただ1人参加した著者は、世界各地からそこに集まった文筆家たちが、さまざまな言語で自分の創作活動を続けているという事実に大きな感慨を覚える。

 モンゴルからやってきた詩人であるダシュニムは、狩人を父親に持ち、大草原で大家族が同じテントに住むという少年時代を送ったが、たまたまソ連に留学し、博士号まで取得したが、帰国後はモンゴルをソ連の影響下から独立させる運動に参加したという。あまり達者とは言えない英語で、自分のさびしい胸中や、祖国への思いをつぶやいていた。「言葉の上手い下手にかかわらず人格の上下はおのずから明らかになるものと見え、ダシュニムは人格者としてみんなから信頼されていた。」(39ページ)
 ダシュニムの友達の若いリトアニアの詩人はギンターリスといい、日本の「ボンサイ」と釣りが趣味で、暇があるとアイオワ川で釣りをしていた。ある時、大きな魚が釣れたのをどうしてよいのかわからないでいると、ダシュニムが「見かねて料理したという。/捕った獲物は食せねばならぬ、というのが狩人をお父さんにもったダシュニムの哲学である。/でも、おいしくなさそうなので、自分は食べなかったとダシュニムは笑ってつけ加えた。」(40ページ)

 モンゴルと中国の関係の方がロシアとの関係に比べて長かったはずであるが、ダシュニムが中国の作家と話しているのは見たことがなかった。
 中国からは男の小説家が2人で、その1人の余華(ユイ・ホア)はカンヌ映画祭で審査員特別賞を取ったチャン・イーモウ監督の映画『活きる』の原作者であった。
 韓国からの作家は男が3人、一番英語の上手な詩人のイーサン・キムは韓国や日本料理に水村さんをよく誘った。他の2人を加えて「4人で忙しくお箸を使う時間は、アメリカでならではの、東アジア人の東アジア人に対する優しさと気楽さを感じる時間であった。」(41ページ) 次に英語の上手なキム・ヨンハは水村さんの作品が韓国語に翻訳されるのに一役買ってくれた。「韓国では随分と評価されている若手作家らしい。」(41ページ) 〔どうもそのとおりらしいのだが、彼の作品は日本語に翻訳されていない。〕 もう1人はあまり発言しなかったが、発表の時の振る舞いで、結構ユーモアの精神を持ち合わせていることが分かった。

 アルゼンチンからきているレオポルドという若い小説家も水村さんの作品のスペイン語訳の刊行の道筋をつけてくれた。会議の時はあまり話さなかったのだが、その後、翻訳の出版をめぐって頻繁にメールを交換するようになり、”Abrazo!”というスペイン語の別れの挨拶を覚えたという。
 レオポルドに野趣が感じられたのに対して、ドイツから来たマティアスには「これまたおかしいほど文明的な匂いがした。」(43ページ) イスラエルから来たシモンは菜食主義者であり、ポーランドから来たマルツィンは英語を話さないのでいつもむっつり酒ばかり飲んでいた。イギリスから来たグレゴリーは大変な環境主義者であった。
 「地球のありとあらゆるところで人は書いていた。」(44ページ) 多様な環境を背景として、さまざまな個性をもった参加者たちが小説や詩を書いていることを水村さんは実感する。

 そのような環境の違いで、とくに感じられたのは、「金持ちの国でも貧乏な国でも書いている」(44ページ)ということである。「金持ちの国からきた作家と、貧しい国からきた作家では、ドルのもつ意味が気の毒になるほどちがった。」(同上) 滞在中支給される1日20ドルで、水村さんは食べたり飲んだり、生活必需品を買ったりした。映画も見たし、ビールも飲んだ。
 一方、貧乏な国からきた作家は、少しでもドルを残して、自分の国へ持って帰るために、不自由をものともせずに自炊したり、菓子をかじったりしていたが、ただで食事が供されるという機会の噂を聞きつけると、どこからともなく姿を現した。

 「女の作家の貧乏は男の作家の貧乏よりもひりひりと肌で感じられた。」(46ページ) ウクライナから来た陽気なイフゲーニアは安物屋に吊るされた手袋を息子たちのために買って帰ろうか、どうしようかと迷っていた。水村さんと同室になったポーランドの哲学者アガータはナチスの侵攻と、その後のソ連の支配のもとで苦しんだ過去について語ったが、もしそういう過去に出会わなければ豊かな環境の中でその美貌にふさわしい生活を送ったかもしれないと思われた。
 そうした中でいつとはなしに仲良くなったのはノルウェーから来た女流作家のブリットであった。水村さんと彼女は豊かな国からきたもの同士ということで、一緒に昼間からビールを飲んだり、映画の話をしたりした。

 さらには、参加者を取り巻く政治状況も多様であった。「旧ソビエト圏からの作家にとっては、まずは、言論の自由というものが、あたりまえのものではなかった。」(53ページ) ルーマニアから来た小粋な仕草を見せる詩人のデニーサの頭の中は「国家権力とどう付き合ってきたか」というテーマでいっぱいだった。
 「もちろん、今現在、言論の自由の抑圧を経験している作家たちもいる。」(54ページ) 中国から参加した2人の男性作家のうちのもう1人は言論の自由の闘士であり、彼の書いた風刺小説の英訳コピーを水村さんに渡してくれた。そして当時はまだ軍事政権下にあったビルマ(ミャンマー)の初老の作家は、この会議中にアメリカに亡命してしまった。

 「実際、この半世紀ずっと平和が続き、しかも言論の自由が保障されていた国――すなわち、第二次世界大戦というものが最後の大きな傷跡であった国からきた作家は少数であった。」(57ページ)
 ヴェトナムからきた作家は、ヴェトナム戦争が終わった年にハノイで生まれた。チリやアルゼンチンなど南アメリカからの作家は軍事政権や内乱を生きてきた。イスラエルからの作家は今なお戦闘地域に生きているのに等しい。唯一イスラム教の信者であったボスニアからの作家は、非あざに銃弾の破片を入れたままであった。また唯一の黒人であったアフリカのボツワナからの作家は、祖国がイギリスの植民地だった時代に生まれている。韓国からの作家たちは〕まだ弊社で寝ている!』という夢を見て、恐ろしさに今も飛び起きることがあるという。

 参加者たちの経験してきた世界はそれぞれ違い、その中での対応の仕方も違う。これまで、歴史的な伝統や、経済、政治の問題を取り上げながら、話を進めてきた水村さんは、参加者の個性を描き分けながら、さらにもっと重大な問題について語ろうとする。それは作家たちがどのような言語で書いているかという、この書物の主題と密接にかかわりあう問題である。 
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