なぜ英語を勉強するのか?

7月9日(土)雨、夕方には降りやむ。

 なぜ、英語を勉強するのか? 世界には5,000とも7,000ともいわれる言語がある。その中でなぜ、英語を選んで、小学校から、場合によっては保育園から勉強するようになっているのか? それは英語がどのような言語であるのかと関係してくる。

 英語は、いくつかの主要国と、かなり重要な国で(大部分の人々に)話されている言語である。英語は英国(イングランド、ウェールズ、スコットランド)とアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、それにアイルランドで使われている。英国のウェールズではケルト系のキムリア(ウェールズ)語との二言語併用政策がとられており(駅の表示など二言語で書かれている)、スコットランドでも同じくスコットランド・ゲール語の復興運動が展開されている(エディンバラでTVを見ていたら、スコットランド・ゲール語の番組が放送されて、まったくわからなくなってびっくりしたことがある)。カナダのケベック州はフランス語が優勢であり、カナダ全体として英仏二言語が公用語となっている。ニュージーランドもマオリ語との二言語併用政策がとられているらしい。南アフリカについてはよく知らないが、アイルランドでもアイルランド・ゲール語との二言語併用政策がとられている(駅や道路の表示は英語とアイルランド語の両方を使用している)。だから、英語使用国といっても、それぞれに複雑な事情を抱えているのだが、その一方で、非英語国の人々を対象とする英語教育がこれらの国々にとって重要な「産業」になっていることも否定できない。
 これらの国々の社会や文化に興味がある人、興味はなくても用事がある人は英語ができないと困るだろう。

 もう一つ、英語は国際会議や、国際機関で最も多く使われる言語である。また、商取引や個人レベルの国際交流、海外旅行の際にも役に立つことが多い。私がまだ、大学院にいたころ、韓国の梨花女子大学校の学生がやってきて、向こうは日本語ができず、こちらは韓国語ができず、英語で話をしたのだが、実にもどかしい気持になったのを思い出す。このように、お互いに、お互いの言語を理解してない場合にも、英語を使うことが多い(水村美苗さんの本にも出てくるが、ロシア語を使うことも意外に多い)。

 とはいえ、国家社会の見地から見た英語学習の意義は必ずしも、教育を受ける各個人に内在化はされないのである。うーん、どれをとっても関係がないなぁという人も少なくないのではないか。そのことをもう少し考える必要はないのだろうか。

 1974年に午夢館という書店から発行され、1978年に補筆修正を加えて文春文庫に収められた中津燎子『なんで英語やるの?』の最後の方にこんなことが書かれている。「日本人全部が通訳になる必要もない。一億、英語を総ペラペラという図は考えてもゾッとする。だが、現在の英語読みの英語知らずは、その昔の、論語読みの論語知らずとどこか共通していておかしいのではないか。/将来、島国日本は、世界の中でたしかに孤立しない方がいい。〔孤立しない方が確かにいい――の方が分かりやすいだろう。〕 それには、子供たちも孤立的な傾向に育てるべきではない。せっかく学校で英語をやっているのだから、それを最大限に利用して、最も重要な時期の子供たちに、国際社会で、生き延びていける知恵と、国際社会で、生き延びていける知恵と、技術と、心構えと、人間性を養う教育を与えるべきではないだろうか。受験英語教育と言うせまさの中で、殺されそうになっている中学、高校の英語の時間は、国際社会科としての勉強に切り替えてもいいのではないか」(362-363ページ)。「国際社会科」というのは1つの考え方である。他の考えもある。

 同じ年に平泉渉が提案した「外国語教育の現状と改革の方向」という提案を行う:。平泉は「従来の外国語(事実上、英語)教育が「ほとんど読めず、書けず、わからない」」という非常に遺憾な結果しか招かなったととらえ、受験英語を英語学習を歪める悪者とみている。そして、根本的な改革として、
1 世界の言語と文化についての常識を教える科目を中学課程に設ける。
2 すべての生徒に、英語についての常識を中学1年修了まで教える。
3 高校では英語は選択制とする。希望者のみを対象として、学習時間を増大し、毎年少なくとも1か月の完全集中訓練をも行う。
4 大学入試から英語を外す。
の書店を挙げているという。この提案に対して、英語学者の渡部昇一氏が反論を行い、論争が展開された。平泉渉・渡部昇一『英語教育大論争』を参照・引用すべきだが、書店で見つからなかったので、行方昭夫『英会話不要論』(文春新書)からの引用で済ませたため、平泉の真意を十分に理解できていないのだが、少なくとも2つのことがいえると思う。

 1つは、平泉の提案はほとんど実現されていないということである。大学入試から英語を外すどころか、英語の入試の改善の努力が続けられているというのが実情である。この提案を含めて、奇抜に思われる点もないではないが、それなりにやってみる価値のあるものではないかということである。どういう実施上の問題が予測されるかは、また機会を改めて述べてみたい。
 もう1つは、はじめに述べたことと関連して、受験英語否定、文法・訳読を重視せず、実際的なコミュニケーションを重視すべきであるという議論、そして1990年代以降のコミュニケーションを重視するという日本の英語教育の大勢は必ずしも、平泉提案によってではなく、ある種の「空気」として形成されてきたのではないかということである。日本の将来にかかわる重大な議論が、「空気」として形成されるというのは困ったことなのだが、それは今に始まったことではない。そういう政策形成を食い止めるための努力をすることこそが、歴史の教訓として実践されるべきことではないかと思うのである。
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