『太平記』(112)

7月8日(金)晴れたり曇ったり、暑し

 元弘4年(1334年)7月に、年号が建武と改められる。昔の中国で後漢の光武帝が漢王朝による政治を回復した例に倣ったものである。世の中はまだ戦乱の余燼がくすぶり、落ち着いた状態ではなかったが、紙銭を発行してまで内裏の造営が急がれ、その一方で倒幕にかかわる恩賞が不公平で不満を抱くものも少なくなかった。8月に、隠岐広有に命じて内裏に飛来する怪鳥を射させることがあり、また天下の妖気を消すべく、弘法大師ゆかりの神泉苑が再興された。建武2年3月に足利高氏と対立していた護良親王が、高氏の讒言により逮捕・拘禁され、5月に鎌倉の足利直義のもとに送られて禁獄された。
 その頃、出雲の塩冶髙貞のもとから龍馬が献上された。これは吉例であると喜ぶ後醍醐天皇に対し、万里小路藤房は建武政権の失政を説いて諫めた。「龍顔(りょうがん)少し逆鱗の御気あつて、大臣皆色を変じければ、置酒高会も興なくして、その日の御遊は闇にけり」(第2分冊、298ページ、天皇のお顔に少し怒りの色があって、大臣以下皆恐れをなして青くなったので、盛大な酒宴を開くつもりだったのが興ざめしてしまい、その日の御遊は中断してしまった。)

 これから後も藤房卿は、立て続けに諫言を奉ったけれども、天皇がお聞き入れにならず、内裏造営を続行され、贅をつくした詩歌管弦の遊びをなおもしきりに開かれたので、藤房は、これを諫めかねて、「臣下のものとしてなすべきことはすべて行った。こうなっては隠遁するほかあるまい」と決心されたのである。

 建武2年3月11日に、天皇は石清水八幡宮に行幸され、諸卿が皆参拝の道中の装いを凝らされた。藤房も当時検非違使別当を務めていたので、これが最後の御奉公だと思ったので、引率する配下の者たちにことごとく目を驚かすほどに目覚ましい服装をさせた。天皇の側近として世俗での繁栄を願ってきた身ではあるが、明日からは仏の道を歩もうと、参拝しながらも感慨にふけるのであった。行幸が終わって、藤房は辞表を出すために天皇のおそばに伺候し、中国の昔の諫臣たちの事績を申し上げて、明け方に退出した。藤房の目には涙が浮かび、内裏に浮かぶ月が滲んで見えたことであった。

 陣頭と呼ばれる内裏警固の武士たちの詰め所で、車を宿所へと返し、侍1人だけを連れて、北山の岩蔵(現在の京都市左京区岩倉)に向かい、そこで不二坊という僧侶に戒師(出家の際の儀式を執り行う僧)をお願いして、ついに文官として仕えた冠を脱ぎ、十種の戒を持する僧体になった。貧乏な暮らしを送り年を取った人物でも、夫婦・親子の御愛の情を棄てることができないのがふつうである。まして、身分も高く、まだ年齢も40歳に達していない人が、妻子に離れ、父母を棄てて、山川行脚の身となったのは、あまり前例のない発心であった。

 このことが天皇のお耳に入ると、大変に驚かれて、その在所を急ぎ探し出して、再び政道を助ける臣下とすべしと、藤房卿の父親である宣房卿に仰せられたので、宣房卿は泣く泣く車を飛ばして、岩蔵へと息子を訪ねていかれた。中納言入道(藤房卿)はその日の朝まで岩蔵の坊においでだったのが、ここもまだ都が近いので、浮世の人が訪問してくることもあろうかと、疎ましく思われて、どこともなく、足の向くままに旅立ってしまわれた。

 宣房卿が岩蔵の坊にたどり着かれて、このような人がいないかと尋ねられると、主の僧はその人は、今朝までここにいらっしゃいましたが、行脚の志があるとおっしゃられて、どこへともなく、旅立たれてしまいましたと答えた。宣房卿が涙を抑えて、藤房卿がこれまで住んでいた庵室の中をのぞいてみると、破れた障子の上に一首の歌が書き残されていた。
 住み捨つる山を憂き世の人問はば嵐や庭の松に答へむ
(第2分冊、302ページ、私が捨てたこの山を俗人が訪ねても、庭の松風のみが応じるだろう。)
 さらに出家のかたい決意を記した文言が連ねられていたので、宣房卿も、もはやこの世で息子と再会することはできないだろうと、涙にくれながらむなしく帰られたのであった。

 『太平記』の作者は、藤房の出家がおそらくは親の意に反するものであったにもかかわらず、彼の先祖にとって功徳を施すものであったと評価している。「百年の栄耀は風前の塵、一念の発心は命後の燈なり」(第2分冊、304ページ、百年続く世俗の栄華は風前の塵のようにはかないが、発心・出家は死後の長い闇路を照らす燈となる)という。

 しかし、より大局的に事態を眺めると、もう少し別の見方ができることも『太平記』の作者は承知していたようである。そのことについては次回に明らかにするが、万里小路藤房という硬骨漢を失ったことが、建武政権にとってどれほどの痛手であったかを、これからの物語は嫌というほど語ることになる。

 京都で過ごした学生時代、岩倉というのは大学からは少し遠かったが、通えない距離ではないし、多分、家賃が安かったこともあって、下宿している友人・知人が少なくなかった。京都の川が北から南に流れていることで分かるように、北の方が高く、また寒い。北の方では雪でも、少し下ってくると霙ということもあったのを思い出す。昔、京都に住んでいた人々が隠棲するということになると、盆地を囲むどこかの山の麓や中腹に居を構えた。慶滋保胤、鴨長明、兼好など皆しかり。私がもし京都の近くに隠棲するということになれば、宇治がいいね。寒いのは嫌だ。
 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR