倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(3)

7月6日(水)曇り後晴れ

 今回は第2章「栄華の初花」の初めの方の部分を取り上げる。第1章「権力への道」では、長徳元年(995)に疫病の流行で兄たちが薨去したことにより、道長が太政官の首班にのし上がったこと、その権力を固めるために長保元年(999)に娘の彰子を一条天皇のもとに入内させたこと、ところがなんという偶然であろうか、天皇の中宮である定子が同じ日に天皇の第一皇子である敦康親王を出産された。このため、道長は彰子を中宮に格上げしようとする。長保2年のことである。ところがこの年の12月に定子が崩御されてしまう。道長は万一の場合に備えて、敦康親王を彰子のもとに引き取らせ、その後見を続けた。道長の長男である頼通は長保5年に元服、寛弘元年(1004)に昇殿を許されて、後継者としての道を歩み始めていた。寛弘3年ごろになると、一条天皇と成長を遂げた彰子との間に応じ誕生の可能性が高まる。紫式部が彰子のもとに出仕したのは寛弘2年の末か3年のことと考えられる。

 道長と、兄道隆の遺子で中宮定子の兄弟である伊周・隆家との政権をめぐる争いについては、ほかの書物で多くのことが記されているので、この書物では道長の日記に即して最低限のことしか記されていない。通説に依れば、紫式部がその日記で清少納言のことを悪く論評しているのに、清少納言の『枕草子』には紫式部のことが出てこないのは、両者が宮廷生活を送った時期の違い(清少納言が定子に仕えていた時代の方が早い)によるものだというが、この書物はその見解を裏付ける内容になっている。

 寛弘4年(1007)に道長は金峯山に詣でているが、その隠された趣旨は彰子の懐妊を祈るものであったと思われる。その年のうちに彰子は懐妊する。翌年「「御懐妊五箇月」となった彰子は、多くの公卿を従え、4月13日に道長の土御門邸に退出した。いよいよ『紫式部日記』の世界が始まったのである。」(93ページ) 
 「なお、彰子のお産が近づくにつれて、『御堂関白記』の記事はめだって少なくなってきている。御産の準備に忙しすぎて、日記を記す暇もなかったのであろうか。それは紫式部によって仮名で記録された御産記である『紫式部日記』が『紫式部日記』がこの年の7月からはじまっていることと、見事に波長を合わせたかのようである。彰子の御産の記事では『御堂関白記』と『紫式部日記』で同じ表現をしている箇所も存在する。これはどういった事情によるものであろうかと、いつもあれこれ想像してしまう。」(96ページ)

 ご出産は物怪が出現する(と当時の人々が感じていた)中で行われたが、9月11日、彰子は皇子を無事に出産された(敦成親王、のちの後一条天皇である)。「栄華の初花」である。道長の周辺は喜びに包まれた。実資の『小右記』はこの時の道長の喜びの言葉を伝え、行成の『権記』はご誕生を「仏法の霊験」(102ページ)と記しながらも、敦康親王誕生の際には記した一条天皇の喜びの言葉を書き記してはいない。
 「ともあれ、これで敦康は、道長にとって全く無用の存在、むしろ邪魔な存在となったのである。同様、伊周をはじめとする中関白家の没落も決定的となった。そればかりか、外孫を早く立太子させたいという道長の願望によって、やがて一条との関係も微妙なものとなる。」(同上) それでもまだ敦康親王の即位の可能性をあきらめていない伊周との小競り合いはあったが、寛弘6年に起きた呪詛事件により、伊周の政治生命は全く絶たれてしまう。

 この年、一条天皇と彰子の間に、敦良親王が生まれる(後の御朱雀天皇)。『御堂関白記』、『紫式部日記』その他の当時の貴族の日記をみたところでは、前年の敦成親王の誕生の際に比べると熱気にかける出来事なのだが、「結局はこの皇子が後世まで皇統を伝えていくことにあるとは、この時点ではだれも予想できなかったであろう」113ページ)と著者は歴史の皮肉な側面を指摘している。

 こうして、道長は未来の天皇の祖父となる可能性を大きく膨らませていく(一条天皇、東宮である居貞親王⇒三条天皇には、道長の外孫以外の皇子がいたから、絶対に確実とは言えないのである)。伊周が失脚した後、道長にとって代わろうとする者も現れず、彼は順調にその権力基盤を固めているように思われる。
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