『太平記』(111)

7月1日(金)曇りのち晴れ

 鎌倉幕府が亡びて、後醍醐天皇の理想とされる天皇親政の政治が復興されたが、様々な問題を抱えて前途多難に思われた。その頃、出雲の守護であった塩冶髙貞のもとから龍馬=きわめてすぐれた馬が献上された。後醍醐天皇はこれが天皇の政治の前途を祝福する吉兆であるという洞院公賢の意見を喜ばれた。

 少し時間がたってから、万里小路中納言藤房卿が参内された。その地位にしたがってしかるべき場所にお座りになった後のことである。天皇は藤房に向かい、天馬が遠くからわがもとにやってきたことをめぐり、諸臣が先例を考えて既に吉例と定まった。藤房はどう考えるのかとお尋ねになった。既に吉例と定まったのであれば、これ以上臣下の者に質問する必要はないのであるが、さらに諫臣というべき剛直な性格の藤房にお尋ねになったのは、よほどうれしかったのか、なお不安が残ったのかのどちらかであろう。

 藤房の答えは(おそらく)天皇の予想を裏切るものであった。わが国では天馬がやってきたという例はこれまでないので、吉凶どちらとも申し上げかねますが、多少の思案を凝らしてみたところでは、凶ではないかと思われます。
 その理由というのは昔、漢の文帝の時代に千里の馬を献上する者がいて、臣下のものはこれを祝賀したのだが、皇帝は、自分1人が千里の馬に乗っても、臣下のものがついてくることができなければ意味がないといって、馬を受け取らなかった。また後漢の光武帝の時代にも千里の馬と宝剣を献上する者がいたが、皇帝はこれを特別扱いしなかった。
 その一方で、周王朝がすでに衰え始めた時に、房星という星の精が地上に降りて、8匹の駒となった。穆王はこれらの馬を愛して造父という優れた御者に馬を預け、あちこちを旅行して回っただけでなく、この世から離れて仙人の世界にまで入り込んだので、その間、周の政治は乱れ、世の中は衰えを見せた。これが周王朝の衰亡の始まりであった。

  「文帝、光武の代には、これを棄てて福祚久しく昌(さか)へ、周穆の時には、これを愛して王業始めて衰ふ。拾捨の間、一凶一吉、的然として耳にあり。」(第2分冊、294ページ。〔前漢の〕文帝、〔後漢の〕光武帝の時代には、これ〔=龍馬〕を棄てて天使の位は長く栄え、周の穆王の時代には龍馬を愛して国王の事業が始めて衰えを見せました。天馬を取るか捨てるか、一方は吉で一方は凶。はっきりと耳に入っております。」
 天皇のお気に召さないことをズバリと申し上げただけでなく、さらに追い打ちをかける。

 愚かな廷臣である私が思いますのに、元来、珍奇なものはすぐれたものではなく、ただ君王の心を蕩かすので害があると申します。おそらくはご政道が正しくないために、房星の精がこの馬に化けてわが国にやってきて、君臣の心を蕩かそうとしているのでしょう。
 と、申しますのは、全国的な内乱に苦しんだ直後なので、裁判官は食事中であっても、訴訟ごとに対応し、臣下のものは競って天皇に諫言を申し上げ、天皇の政治の誤った部分を正そうとするべき時であるのに、地位の高い廷臣たちは楽しみにうつつを抜かして、世の中の現実を見ようとはしていません。廷臣たちは、天皇に媚びるばかりで、国がどのように危険な状態にあるのかを申し上げません。このために〔建武の新政権は〕人々の信頼を失って、訴訟の場である記録所、決断所に集まってくる大衆の数は〔愛想をつかしたために〕日々減少しています。貴族たちは、政治がうまくいっているから、訴訟が減っているのだと喜んでいますが、事実は全く逆なのです。

 ここから藤房は具体的に、建武政権下における失政の具体相を糾弾し始める。鎌倉幕府に対し、諸国の武士たちが反旗を翻したのは、自分たちの功績によって恩賞にあずかろうとしたためであったが、幕府が倒れて恩賞の沙汰が下ってみると、公家たちばかりが甘い汁を吸っている。武士たちの多くがこれに腹を立てて本国に帰ってしまったのを、新たな内乱の前兆として対策を講じるべきであったのに、そんなことは知らない様子で、新しい内裏を造営するだけでなく、その費用が足りないからといって、紙銭の発行という禁じ手まで使っている。さらに諸国の地頭たちに所領からの収益の20分の1を上納せよと命じられているために、疲弊している地方の武士たちの困惑は並大抵のことではない。鎌倉幕府のもとで地方の地頭やその他の職分に任じられていた武士たちは、新政権のもとでこれまでの権限を失って、地方では混乱が生じている。それだけでなく、建武政権から派遣された役人たちのもとで自分たちの家の伝統が否定されたと怒りが募っている。その憤りは大変なものである。

 後醍醐天皇は護良親王に対して冷たい態度をとっただけでなく、おそらくは親王の指示の下で倒幕に尽力していた赤松円心に功績にふさわしい賞を与えなかった。さらに今、鎌倉幕府倒幕の企てのころから、天皇のおそばに仕えて、時には耳の痛いことを言い続けて、天皇を支えて来た万里小路藤房卿の諫言に直面している。このように直言するものが天皇の側近にいるということは、その権力と権威を維持していくために不可欠であるのだが、この時期の天皇はそのようにお考えにならなかったようえある。
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