倉本一宏『藤原道長「御堂関白紀」を読む』(2)

6月29日(水)曇り

 よく言われることだが、日記には「人に読ませる日記」と「人に読まれないように書く日記」の2種類がある。もっとも、「人に読まれないように書く日記」のほうが、面白いことが多い。実際問題として、この両者を区別することは難しく、映画作家のジョナス・メカスのように「本当の日記」と「映画日記」という2種類の日記を書いて、「映画日記」の中で時々「本当の日記」を引用したり、石川啄木のように奥さんには読まれないようにローマ字の日記を書く、英国の王政復古期の宮廷の様子を書き残したサミュエル・ピープスのように一種の暗号で日記を書くというような人もいる。解読できる人には読まれてもかまわない、あるいは自分が死んでからのことは知らないということのようである。

 平安時代以後の貴族の場合、これまで何度か書いてきたように「人に読ませるための日記」を書く例が多かったのだが、その場合でも読者として想定されていたのは、自分の子孫とか身近な人々で、読まれたくない人もいたに違いない。道長の場合はどうだったかというと、倉本さんは「他人の目に触れることを想定しておらず、自分の備忘録のようなつもりで記した」(34ページ)ものではないかと推測している。『御堂関白記』だけから判断すると、道長の字は汚い、下手な字であるが、「道長は本気で綺麗な字を書こうと思えば書けた」(43ページ)のであり、そのことからも他人に見せることを想定して書かれたものではないことを示すものであろう。そして最初のほうに述べたように、だからこその面白さが、この日記にはあるのである。

 この書物は『御堂関白記』の原本写真、翻刻文(原文)と現代語訳、そして解説を並べていくという工夫をしながら、日記の興味深い部分を紹介している。前回に紹介したように、第1章は「権力への道」と題されていて、長徳元年(995)5月11日に権大納言であった29歳の道長が、兄である関白道隆、その後関白を継いだ兄で右大臣の道兼が連続して薨去した後に、彼よりも上位の内大臣であった道隆の子伊周をさしおいて、内覧の宣旨を得る。道長の同母姉であり、一条天皇の母であった詮子の意向が強く反映したものと考えられる(道長自身がそのことを認めている)。「伊周よりも下位の権大納言のままでは都合が悪かろうということで、道長は右大臣に任じられ、太政官一上(だいじょうかんいちのかみ)(首班)となった。右大臣となった道長が改めて関白にならなかったのは、一条の意志なのか、それとも道長の謙譲なのかはわからないが、結果的には道長は関白の地位に就かなかったことによって、伊周を抑えて公卿議定(ぎじょう)を主宰でき、その権力を万全にしたのである。」(28ページ)

 しかし、当初は道長の権力は安定したものではなかった。彼自身病弱であり、長女の彰子は8歳と幼少、嫡男の頼通は4歳とさらに幼少で、彼が長期政権を築き、頼通を後継者としてその家系のみを摂関家とする伝統を残すと想像する者はいなかったはずである。道長の短期政権の後に、中宮定子の兄伊周が政権の座に就くということも十分に考えられた。「一条と定子・伊周との親密な関係は、『枕草子』に余すことなく描かれるところである」(30ページ)と倉本さんも記している。

 長徳4年(998)7月5日、当時流行していた疫病に対する措置を蔵人頭である藤原行成に命じたというのが、現在残る『御堂関白記』の最古の記事である。翌年の長保元年(999)になると道長は日記をつけることが多くなるが、その主な内容は長女の彰子を一条天皇の後宮に入れ、女御としたことである。彼女が女御の宣旨を受けた11月7日は、奇しくも定子が一条天皇の第一皇子である敦康親王を出産した日であった。一条天皇はこの出産を喜ばれたが、公卿社会の関心は、むしろ彰子の女御宣旨の方に向けられていたことは、公卿の列に加わっていた実資の『小右記』によって窺うことができる。

 定子が一条天皇の寵愛を受けているうちは、伊周が道長にとって代わる可能性があるので、彰子と一条天皇の関係は道長にとって重要な関心事であった。(彰子のもとに紫式部、和泉式部、赤染衛門らの才女を結集したのはこのことが背景にある、また定子の側には清少納言がいたのは、ご承知のはずである。) 彰子をめぐる様々な儀礼にどのような公卿が参集したかは『御堂関白記』に詳しく記されている。(道長の兄で、『蜻蛉日記』の作者の息子である道綱が、いつも顔を見せているのが興味深い。) さらに、自分が主催する催しにだれがやってきたか、来なかったかなども記しているのが、いかにも政治家的である。

 その一方で、道長は剛胆な一面も持っていた。寛弘3年(1006)7月、大和守源頼親と興福寺との紛争の結果、不利な判定を受けた興福寺の大衆が上京し、圧力をかけたが、一条天皇は宣旨を下して僧たちを追い立てた。「院政期の僧兵に対する朝廷の対応と比較して、いまだ朝廷、および天皇の権威は大きなものであったことを実感させられる」(82-83ページ)と著者は記す。道長も興福寺の別当が脅しにやってきたのを、逆に脅して退去させている。自分のこの行為について、道長は自賛の言葉をその日記に記す。「このような剛胆なトップに率いられた公卿社会というのは、やはり後世、聖代として仰がれることになるのも、謂れのないことではないのであった」(83ページ)と第1章は結ばれている。

 この書物を詳しく読むと分かるように、「聖代」の主役である一条天皇と道長の関係はかなり微妙なものであったが、いざというときには一致して事に当たることができたというのも大きいなあと、その後の歴史と比べて考えさせられる。
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