倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』

6月25日(土)曇り

 倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社選書メチエ)を読み終える。

 この書物は
 序章  『御堂関白記』とは何か
 第1章 権力への道
 第2章 栄華の初花
 第3章 望月と浄土
 終章  再び『御堂関白記』とは何か
という構成を取り、平安時代中期を代表する政治家である藤原道長(966-1027)の日記『御堂関白記』の概要と、その内容を通じて知られる道長の人間像、この時代の政治の特徴を描き出している。

 2013年に発行された書物であるが、遠藤慶太『六国史――日本書紀に始まる古代の「正史」』のなかに、国家の事業として歴史書が編纂されなくなった理由の1つとして、貴族の家柄が固定化して、それぞれの家柄で昇進できる地位や実際に担当する職掌が決まるようになり、その際に参考にするために先例として記録する範囲が限られるようになり、一般的な歴史書の編纂がそれほど必要とされなくなったという事情があり、それぞれが自分の子孫に伝えるために日記を書き残すようになったという経緯を知ったからである。

 道長は、父である兼家の摂政就任後に急速に昇進し、長徳元年(995)、兄である道隆・道兼の薨去により、一条天皇の内覧(関白に准じる職。奏上・宣下の太政官文書を内見する)となって、いきなり政権の座に就いた。右大臣、次いで左大臣にも任じられ、内覧と太政官一上(いちのかみ)の地位を長く維持した。
 長徳2年に道隆嫡男の伊周(これちか)を退けた後は政敵もなく、一条天皇の後継者問題をめぐる微妙な問題や、三条天皇との確執も存在したが、娘である彰子・妍子・威子を一条・三条・後一条天皇の中宮として立て、「一家三后」を実現するなど、摂関政治の最盛期を現出させた。

 道長は、政権を獲得した長徳元年から日記を記しはじめ、何回かの中断を経た後、寛弘元年(1004)からは継続的に書き続けている。著者である倉本さんは、この日記の研究者であり、講談社学術文庫からその現代語訳を刊行した(それだけでなく、同じ文庫から、道長の同時代人である藤原行成の日記『権記』の現代語訳も刊行している。後で倉本さんも書いているが、道長、行成のほかにも、この時代の有力な政治家であった藤原実資の日記『小右記』も伝わっていて、後世、道長の時代が貴族にとって模範を示す時代として尊重されていたことが分かる)。倉本さんによると「現存する『御堂関白記』は長徳4年(998)から治安(じあん)元年(1021)に至る、道長33歳から56歳までの記事を収めている。摂関政治全盛期の政治・社会・文化・宗教を、豪放磊落な筆致と独自の文体で描いている」(16-17ページ)という。

 さらに日記の具体的な姿について:「罫線を引き、暦博士や陰陽師・宿曜師(すくようじ)、それに道長家の家司(けいし)が干支や日の吉凶などの暦注(れきちゅう)を記した具注暦の日付の間の二行の空白部(「間明き」)に、日記を記している。とくに書ききれなかった場合、また特に和歌や儀式への出席者や賜禄の明細などを別に記したかった場合には、紙背に記載した裏書も81か所を数える」(17ページ)と記されている。日記の全部が残っているわけではないが、部分的に本人の自筆による巻が残され、その他の部分も写本が残されていて、ほぼ全容を窺うことができる。同時代の日記が写本の形でしか残されていないのに対し、部分的にせよ自筆本が残されていることは、道長という人間が、摂関家の歴史にとって極めて大きな存在であったことを示すものである。

 『御堂関白記』特に、自筆本は(その筆致に道長の心の動きがあらわされていることがあって)彼の人間像を知る大きな手掛かりとなる資料である。というよりも、日本の歴史の中で、藤原道長という人は、名前は有名だが、その人間像についてはあまり知らない、というよりも興味を持たれない人の1人ではないかという気がする。しかし、そうではなく、すでに「豪放磊落」という貴族には似つかわしくないような形容が出現していることで分かるように、長所と弱点とを含めて、興味深い人物であったのである。(「豪放磊落」ということをめぐっては、『大鏡』もこれを裏付ける挿話を記載しているが、注目する人は少ないようである。) 具体的にどんなことが分かるか、どんな人間像が浮かんでくるかについては、また機会を改めて書くことにしよう。 
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