『太平記』(110)

6月24日(金)曇り

 今回から『太平記』13巻に入る。
 鎌倉幕府が滅亡し、12巻の冒頭に述べられるように「公家一統の政道」が復活する。しかし、いろいろな点で、この政権の政治にはほころびが目立ち始めてきた。それだけでなく、倒幕の最大の功労者の1人であった護良親王が足利高氏の讒言により、後醍醐天皇の怒りを買い、鎌倉に配流され、幽閉されるという出来事が起きた。
 これまでも何度か触れたが、『太平記』を補う意味で重要な書物が2冊あり、1冊は『増鏡』、もう1冊は『梅松論』である。『増鏡』は、北朝に仕えた上層貴族(羽林家あるいは大臣家以上の家柄出身)の著作と考えられるが、後醍醐天皇と、その復古政策には賛意を述べている。『梅松論』は室町幕府を武家政権として支持する立場で書かれている。だからこの3冊を比べながら、読み進んでいくと、事態の真相がより明らかになるのだが、あいにく、『増鏡』は護良親王が京都に戻られるところで擱筆されてしまい、これからは、『太平記』と『梅松論』だけの時代になる。「平家なり 太平記には月も見ず(其角)」という発句があるが、その「月も見ず」という部分を補っていたのが、『増鏡』だということも言えるので、話がいよいよ武ばったものになるのは避けられそうもない。

 これからのこともあるので、少し古くなるが、歴史家である林屋辰三郎の『太平記』の主人公はだれかという論考を引用しておこう:
「『太平記』全40巻は、4つの時期を画することができる。第1は、後醍醐天皇の正中~元弘の時期で、鎌倉幕府の解体過程の中で、「悪党」的人間が活動する。第2はいわゆる建武新政府の時代で、やがて足利・新田の水火の争いが南北朝を現出させる。第3は南北朝対立から、新田義貞の戦死、後醍醐天皇の崩御を経て正平の天下一統すなわち観応の擾乱の後、武家方の勝利が定まって、武家方大名のもっとも得意な時代となる。最後は、守護の領国が守護代の国人層把握によって確定し、その上に上洛した守護の代表細川頼之が正式の管領となって、足利義満を補佐する体制が生み出されて「太平」な結びとなる。
 そうすると、楠木正成・足利尊氏・佐々木道誉と細川頼之が、それぞれの時期を代表するといってもよかろう。とくに『太平記』の全巻は、時期的に見てそのまま道誉の生涯に当たるのである。『太平記』が細川頼之の登場によって完結した「中夏無為」の時期とはまさに応安4年(建徳2=1371)前後と考えられているが、道誉の没する2年前のことである。」(林屋辰三郎『佐々木道誉』、平凡社ライブラリー、178-179ページ)

 注目してよいのは、この林屋の見解が吉川英治の『私本太平記』に大きく取り入れられていることである。この作品では足利尊氏が『太平記』以上に大きな存在感をもって描かれているだけでなく、楠正成、佐々木道誉も大きく取り上げられている。『私本太平記』は正成が湊川で討ち死にするところで終わるため、細川頼之は登場しようがないのだが、細川一族の和氏がかなり重要な役割を果たしている(和氏は『太平記』ではあまり出番がないが、『梅松論』では取り上げられている)。

 さて、『太平記』の本文に戻る。12巻でも、護良親王の京都における幽閉場所として登場していたが、後醍醐天皇は二条富小路にあった御所の1町西の二条高倉に馬場殿という騎射などを観戦するための建物を造営された。そして足しげくお通いになり、競馬や笠懸などをご覧になって楽しまれたのであった。

 「その比(ころ)、塩冶(えんや)判官高定がもとより、龍馬(りゅうめ)なりとて、鴾毛(つきげ)なる馬の長3寸ばかりなるを引き進(まいら)す。」(第2分冊、287ページ、その頃、〔出雲の守護である〕塩冶判官高定のもとから、きわめてすぐれた馬だといって、白色に赤みを帯びた毛色の馬の、肩までの高さが4尺3寸ばかりであるのを献上してきた。) 通常の馬は肩までの高さが4尺であるから、それよりもかなり大きいということである。
 献上された日の午前6時ごろに出雲の富田(島根県安来市広瀬町富田)を出発して、午後6時ごろに京都に到着した。その間76里、馬に乗っていたものの言うことには、つむじ風が顔に吹きかかってきて我慢するのが大変だったということである。この当時、天下一の馬乗りとされていた本間孫四郎という武士を呼び寄せて、騎乗させてみると、「四つの蹄を縮むれば、双六盤の上にも立ち、一鞭を当つれば、10丈の堀をも超えつべし」(第2分冊、288ページ)という大変な名馬ぶりを発揮する。(1里=36町≒3.9キロと定めたのは、豊臣秀吉であり、この時代の1里はもっと短かったことを考えても、確かに俊足ではある。それから、この時代の馬は、現代の馬よりも小さかったことも考える必要がある。)

 天皇はある時、公卿たちを引き連れて馬場殿でこの馬をご覧になったが、その時おそばにいた洞院公賢(とういんきんかた)に向かい、中国には千里の馬の話があるが、日本ではこのような馬の話を聞いたことがない。私の治世になって、このような馬がこちらから求めたわけではないのに、遠くからやってきたのはどういうことか、吉か凶かとお尋ねになった。公賢は故実に通じ、『拾芥抄(しゅうがいしょう)』という著書を書いたことで知られる。彼は「これ聖明の徳に依らずば、天豈(あ)にこの嘉祥を降し候はんや。」(第2分冊、288-289ページ、これが天子の明徳に依るものでなければ、天がどうしてこのようなめでたいしるしを下されることがあるのでしょうか)と、周の穆王と菊慈童の故事などを持ち出して、「しかしながら仏法王法の繁昌、宝祚長久の奇瑞にて候ふべし」(第2分冊、292ページ、ひとえに仏法と〔仏法に守られる〕王の治世の繁栄であり、帝の位が末永いことの目出たいしるしでありましょう)と、これが吉兆であるという意見を述べた。

 ここで省略した周の穆王や菊慈童については様々な説話があり、比較説話学的な興味から見ると面白い箇所であることを付け加えておく。『太平記』は説話の宝庫でもあるのである。
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